コラム No. 82

匠(たくみ) 新製品紹介セミナーに行くと、今まで複雑だったことがこんなに簡単になりますよ、と色々と聞かされる。幾つもの複雑に絡み合った手順を経ていたものが、クリック一つやドラッグ一回で済んでしまったりする。 HTMLエディタであれば、HTMLとバックエンド系の連携の話がここ数年スポットライトを浴びている。HTMLのレイアウトをしながら、そこに流し込まれるデータ(DB)を指定して、レイアウトしながら実環境に近いテストが行なえる。 多くの場合、デザイナを対象とした場でそうしたデモを見てきたが、正直言って反応はイマイチだった。理由は明確で、DB設計を同時にやるデザイナが育っていないことと、HTMLレイアウトしている最中に、DBが完成している経験など稀だからだ。 実用的でない奇術や手品を見ているような反応がデザイナの側から返される。熱い拍手があったとしても、そういった機能ができないよりはマシだね、という程度に感じた。更にいえば、そうしたツールがどんなに賢くなっても、HTMLコードを自分の目で確かめる工程はなくならない事を観客は忘れていなかった。 ■ デザイナにとって常識的に揃えておくべきツールは幾つかある。そのツール自体がデザイン工程に深く根ざしていたり、コミュニケーションをする上での常識になってしまっていたりする。 そして、業界内の多くの人が同じツールを使っているという現実は、面白い状況を生む。ツールが提供するデフォルトの機能をそのまま使うことを良しとしない雰囲気を時々感じることがある。 例えば、画像処理のフィルタはデフォルトでもそれなりの数はあるし、別ベンダーのプラグインもあるし、画像フィルターだけで一冊のガイド本になる程ある。しかし、プロを自認する者は、そのままを使わない。独自の組合せを考える。意地でも標準装備品は使わない。それがデザインの幅を広げ、技術を深める。備わっているものを活用しつつ、自作することが、自分の作品だという自負につながっている。 ■ しかし、最近、標準装備の「機能」を鵜呑みにする「層」が目に付き始めてきた。簡単にレイアウトが組めます、と聞くと、そのまま使おうとする。ドラッグ&ドロップで何かを作ることに慣れきった層だといっても良いかもしれない。勿論そのまま使って効果的なら使うべきだが、そうでないときも省力化を口実に多用する者もいる。 開発生産性という言葉に追われて、ワラをも掴む気持ちなのかもしれない。開発工期が短縮化される中で、定量的な判定が出来ない「品質」に拘るよりも、開発時間という絶対尺度だけで「評価」された方が高得点を取れると、踏んだのかもしれない。 しかし、世は「体験」の時代だと、まだ声がする。ユーザビリティの声も沈んでいない。使う場面と使う人達を、キチンと想定したものだけが優れたものだと認められる。それが理想論に近いとしても、身の回りに溢れる「便利そうに装飾された不便なモノ」に囲まれるとあながち否定も出来ない。 自分達は美術作品や工芸品を作っている訳ではない、と声もする。しかし、量産品ばかり作っている手で、いつか大きなモノが作れるのだろうか、とも疑問に思う。「良い仕事」は、「良い仕事」の先にあるものだと思う。手抜きした仕事の先にいつか「良い仕事」が降って来るとは思いたくもない。 そもそも、Webサイトのように誰にも公開されるものなら、誰に「評価」してもらうのだろう。上司だろうか、会社だろうか、それとも使用者だろうか。正しい評価という概念が空ろなまま、使ってもらってこそ道具、使ってもらってこその喜びが、開発生産性という数字を追う目線の中からこぼれ落ちていく。 ■ パソコンが流行り始めた頃、多くの人達が誤解をした。パソコンが自分達の生活を「楽」にしてくれると。簡単に何かをなさしてくれる魔法の箱。でも多くの場合、パソコンはそんな人達に苦痛を残した。そんなに簡単に「楽」は入手できなかった。 パソコンは、全領域での省力化をもたらすモノではなかった。手抜きが出来る環境となるべく生まれたモノではなかったのかもしれない。パソコンはアウトプットの品質を上げるための道具なのだ。手書きよりも綺麗に、記憶よりも正確に。 パソコンが簡単にしてくれた部分を上手く活用し、パソコンの不得意な部分を思いっきりアナログに努力する。そうした二人三脚が優れたIT仕事の原型だと思う。年賀状描きでもデータ処理でも、Webアプリ開発でも。 ■ インターネット時代の副作用の一つに、開発者と使用者の距離が近くなったことが上げられる。生産者と消費者との距離も縮まった。使い手の使う場面を想像でしか垣間見ることが出来なかった時代から、気軽に質問できる位置まで互いがネット越しの隣り合わせに居る。 Webサイトを作る上での武器は、「自分がいかに快適に感じるか」という自問をどれだけ深くし、形に出来るかという点に凝縮できる。作り手と使い手が接近しているからこそ成立する関係だ。 自分ならどう思うのか。ドラッグ&ドロップして作られた既製品で満足するのか。廉価製品を手にしたときに自分ならどう思うのか。勿論、常に最高級品である必要はない。ならば今は廉価版で許されるのか、そうでないのか。使い手と使われる場所をキチンと見極めているか、デザインできているか。 IT技術者さえも「消費」されているように見える昨今、本当の意味でのモノ作りの意地とかプライド等が必要な気がしてきた。いわゆる「匠(たくみ)」の域のIT技術者が見え始めてもおかしくない。 IT技術の中の「クラフトマンシップ」。その根付き方、根付かせ方が今後の歩みを決めていくのかもしれない。頑固な玄人肌の職人気質。そんな親父達が街に溢れていた時代が懐かしい。 以上。/mitsui

コラム No. 81

石の上にも 約20年ぶりにある映画を見た。「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」。最初に見たのは、アニメ好きな友人に半ば強引に誘われてのことだった。当時、私達は好きな漫画家を核としたグループに分かれて、意味もなく真剣な勢力争いを繰り返していた。私は手塚治虫派に属していたが、高橋留美子派の友人が、とにかく興味がなくとも見るべきだ、と言い張った。 不思議でショッキングな映画だった。マンガの原作がついてはいるが、事実上そこに意味はないといっても良い。当時爆発的な人気漫画の映画化でありながら、明らかに原作の枠を外れて、監督の「想い」が感じ取れた。おなじみのキャラクター達ではない、「時間」や「夢」といった概念が主人公だった。 自分の中の映画のアンテナが、「ゴジラ」から「洋画」に切り替わろうとするタイミングだった。この時期にこの映画に出会っていなかったら、私はアニメという分野を切り捨てていたかもしれない。アニメーションの持つ可能性をまざまざと見せ付けられたことを覚えている。 「ハイジ」にも「ヤマト」にも「ルパン三世」にも多くを学んだが、セル画に書かれた連続的な「絵」が伝えてくるものに、哲学的な匂いを感じたのは初めてだった。何かを問いかけて来る映像、そんな作り手としてその監督の名を覚えた。押井守、私が初めてフルネームで憶えた日本の監督かもしれない。 ■ 20年ぶりに見ようと思った理由は二つ。たまたまDVDに目が行ったから、そして「イノセンス」を見たから。「イノセンス」は、3DCGと2Dアニメーションの極限的融合に挑戦した大作で、スタジオジブリがプロデュースし、カンヌ映画祭コンペ作品にもノミネートされた作品だ。筋は入り組み、引用も多く難解だが、少なくともオープニングは見ておかないと次世代アニメは語れないだろう。 押井作品にはインパクトの大きいものが多い。「機動警察パトレイバー the Movie」にも「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」にも見終わって暫くは心を奪われた。原作そのものの世界観がしっかりしているものが選ばれているが、更に押井監督の仕事観が、層を厚くするように上塗りされている。 原作者としては複雑な心境にもなるだろうが、主人公達の行動が「イイトコ取り」されなくて、後始末的な部分までも描かれる場合が多い。正義のために戦っても、何かしらの社会のルールを破れば主人公が自ら謝罪に行ったりする。正しいことを行なっていても何をしても良いわけではない、正義を通すのも大変なんだ、という視点を忘れることがない。 Webサイトのデザインをする際に、様々な障壁に出会うけれど、ユーザ中心の考え方を通したいあまりに、チーム内上下関係にヒビを入れたりしたことがある。そんな時、何となくそんなシーンを思い出す。理想論が青臭く見えてきて、ドロドロの仕事を全部背負ってこそ仕事やっていることになるんだよ、と語りかけてくる。耳には痛いが、忠告をためらわない大切な親友みたいな映像だ。 ■ 「イノセンス」と「うる星やつら2」の共通点は時間の表現の仕方。「あれ?、この場面さっき見たよ」という疑問符を抱かせながら、本当のストーリーの時間軸はどこだっけ、と観る者を惑わす。「当たり前」と思っていたことに、再考の道を、スッと渡し架けてくる。 「イノセンス」を観ながら、どこかで出会った手法だなぁと感じていた。そして、たまたま見つけたDVDで記憶が引き戻された。そして、改めて20年振りの映画を観て、この監督はずっとこういったことを頭の中で増殖させてきたんだ、と感動した。ワンパターンという批判も聞こえるが、コダワリの美学を感じる。 「石の上にも三年」どころではない。一つのことにしがみついて離れない。それは理解されない時期もあったろうし、評価されない時期もあったろう。他人の目は気にしないで、より良い表現の極みまで目指す。でも今、それらが結晶のように美しく独自の色を放っている。ジブリ程の知名度ではないけれど、別の観点で、今や「押井ワールド」はブランドと呼んで過言ではない。 ■ そんなことを考えながら、Ridualを想う。実はVer.2(R2)の試作が着々と進んでいる。次はサーバ型になる予定だ。解析系を先行させている。解析したいサイトのURLを入力すれば、解析が終了した時点でmailで知らせてくれる。更に他の人が解析した結果もWebブラウザで情報共有可能だ。まだまだ技術検証段階なので何も確約できないけれど、面白い方向に「深化」の予定だ。 競合分析には重宝するだろうし、納品検査時でも省力化に貢献するだろう。プロジェクトを蓄積していけるので、ポートフォリオDBになるし、ノウハウDBとして人材教育系にも影響を与えると読んでいる。 解析する内容は今よりも増え、視覚化する基盤技術もSVG以外のモノも考えている。何よりも大きな変更は、解析結果情報をDBに格納するということだ。様々な情報を組合わせて、様々な情報視覚化の表現方法が可能になる。 但し、サーバ化するということは、導入時の技術的難易度をあげることになる。今でもJ2SE(Java)を事前に入れて置く必要があり、それは一般のデザイナは戸惑う部分であるのを知っている。今度は、DBまで用意する必要がある。軽少短薄の流れには明らかに逆行している。 全ては、Ridualが最初に芽生えた時のアイデアから発する。「Webサイトを俯瞰(フカン)できるようにしたい」。そのことだけを言い続けて4年以上が経つ。こちらも年数だけは「石の上」を越えた。 ■ そして先日、漸くダウンロード数が1,000を越えた。日本には、Ridual的にWebサイトを見つめる人は1,000人しか居ないと想定していた。なので、数の上ではポテンシャル層には行き届いたことになる。しかし、事業計画書上の目標をクリアできない。7,500円ですら財布から引き出すのは難しいものなのだと実感している。 流れが来ていないとは思っていない。日々のダウンロード数はこの1年変わらないどころか微増状態だし、メジャーな更新を1年もしていないRidualサイトのアクセス数も波はあるが「閑古鳥」状態ではない。大手のWeb屋さんから興味も向けられているし、産学連携での開発も進行中だ。 Webが物珍しさの段階を超えて、量産体制の時代に入る事は予想できる事だった。その量産の基盤として、HTMLエディタでは心もとないのも自明の事だ。作る場面だけ効率化しても駄目で、検査系の効率も上がらないと、両足で立つ業界にはならないからだ。そしてその量産の中でも品質を高めていける基盤も育てなければならない。だからRidualのようなツールが必要だと、このプロジェクトが開始された。 現状のRidualのとっつき難さも、現仕様が2年も前のもので古すぎるのも、開発陣は承知している。だから「R2」で更に今のニーズに合うものを提供できるように頑張っている。 でも、Ridualが予算系の壁を越えるには、Ver.1の目標を達成する必要がある。NRIはボランティアではないので、継続投資には裏付けが必要だ。私の目を見てください、ではハンコは押されない。 Web開発の流れの本質が変わっていないと見ている私にとっては、4年前の当初のコンセプトを繰り返すことに何の抵抗もない。けれど、新鮮味のない論や数字の裏付けがない話に説得力を感じない層は多い。「石の上まで」をどこまで貫徹できるのか、そろそろ岐路に差し掛かっている。 R2の技術検証作業が進む中、多忙を理由に遠ざけていた足を使った営業活動をそろそろ再開しようと思っている。既存のHTMLエディタとは異なるコンセプトにも、未来を賭け得ると思われる方の投資を募りたい。 R2で実装して欲しい機能もヒアリングさせて頂きたい。Ridual開発陣の目がどこまで実態を見据えているのか。一歩一歩確かめつつ、次の段階を目指したい。 以上。/mitsui

コラム No. 80

人のよいデザイナ 何でも引き受けてしまう人がいる。コマゴマとしたことから、戦略に関わるアイデア出しまで、相談を受けた途端に動き出す。ラフスケッチからグラフィックパーツまで作成し、Flashで試作を作って、カチッとしたドキュメントも書き上げる。 勿論本人の多才さがあるが故なんだが、それでも努力をしないで事を成している訳でないようだ。「どうして引き受けてしまったかなぁ~」のボヤキの一つや二つは微かに聞こえて来るし、目の下のクマが痛々しかったりする。 そうした才能溢れる人と仕事をすると、アイデア出しとか仕事の根源的な部分に触れる作業では大助かりだ。でも、ふと背筋に走る悪寒がある、「この人がいなくなったら大変だ」。 こうした多才な方々に共通している点の一つは、「器用貧乏」。もてる多才さをお金に換える術に長けていない。仕事を頼む側としても、何を聞いても的確な答えが即答されるので、予算をとって云々という経理処理を怠ってしまう。結果として、その人は、その提供したモノに対する対価として正当な金額を受け取っていないような気がする。 ■ 何もかもをお金に換算することは、せちがらい。が、「正当な対価」ということは誰もが考えなくてはならない話だろう。Webの中核にいる人は基本的には、お節介で世話焼きな面を持っている人が多い。だから頼られることは、そのままモティベーションになるし、喜びだ。お金に替えられないのも真実だ。 でも、その仕事を継続することを視野に入れた時、即座の親切が仇になることがある。仕事をお願いする側が気をつければ良い話かもしれないが、その人への依存症が発生する。自分で考えるよりも、頼った方が正解を手に入れられるならば、安易に流れ易い。 依存症の本人の更なる甘えに聞こえるかもしれないが、本人だけで直すことが困難なことが存在する。現在子育てをしながら感じていることでもあるが、甘やかされた子供にシャンとしないさいと言うだけでは物事の改善は難しい。甘えて来れない状況を作るのも必要だ。そしてそれは、そういった状況に気が付いた人の責任なのかもしれない。 親としての喜びは、子供が頼ってくれる部分にもあるけれど、子供が自立してくれる方が、長い目で見れば大きいと思う。どんなコラボレーションの関係であっても、長い目で見れば、互いに自立的であることが望まれるのではないか。正等対価の伴わないイビツな関係は、遅かれ早かれ問題を生じる。 ■ 例えば、仕事関係においては、予算の関係がある。親切に何を訊いても答えをくれるサービス精神は嬉しいのだが、実は予算関係の書類に名が残らないという状況を生む。予算は、タスク進捗管理等とは別の次元の管理体制で動いている。だから、予算会議に記録が残らないような仕事の仕方は、連綿と続ける気のある仕事には不利になる。 何か困ったことがあるときに、気安く質問が出来る関係。それは特に大きな会社にいる人にとって大切な「資産」である。特にRich Internet Application(RIA)系の技術では、ベンダーからの公式情報が余りに少なく、市井のボランティアBlog等の日々の精読が必須だが、それは大手SIerの人間にとって現実的な日常業務ではない。上司への報告の仕方に困るからだ。それらのサマリーを的確にアドバイスしてくれる人がいるなら、検索エンジンよりも遥かに有益である。 しかし、それに予算的な裏付けをしていない場合、大きな作業はお願いできない。その一線を越えると「奢り」の領域に入ってしまう。電話で一言で聞けるような質問ならまだしも、作りこまないとならない事柄を、ボランティアでお願いするような破廉恥な客に成り下がる。そして、そうなったら、その関係は終りだ。 一度壊れた人間関係は修復するのは大変だ。おまけに、それまでの情報パイプが断たれることは業務的な支障も生みかねない。「次何かで埋め合わせするからさぁ」等というTVドラマで聞き慣れた実行する気のない台詞は信用されない。埋め合わせの意味するものは「予算」であり、今確保できない予算を将来約束できないご時世であることは皆が知っているのだ。 ■ 頼む側の問題だけではない。予算を付けずに引き受ける仕事が増えると、必然的に自分の勉強の時間が減る。1日に24時間しかないというのが、世界中の人に与えられた唯一の平等な部分だ。そんな自己研磨していない人が頼りにできる時間は、残酷だがそう長くはない。 人は良いけれど、技術的に最先端に位置していない人は哀しい。例えば、弊社がFlashアプリケーション開発を行なう場合、どんなに見事なアニメーションが描けても協労は難しいと思う。ActionScript2で細かなデータ型定義をきっちり記述し、MVCモデルに沿ったソースコード管理が前提になる。 FlashやActionScriptについてのみの知識以外のものが要求される。Java系との連携も必要だし、データベースやXMLの話も通じないと困る。Flashという専門領域以外に共有しておきたい「基礎」がある。その基礎を共有した上で、お互いの専門領域で知恵を出し合い顧客満足度を高めたい。 それは我々が担当する仕事で、将来に渡ったシステム保証を担う部分が大きいからだ。リリースすること自体よりも、リリースした後の「責任」に重きを置いている様にさえ見える。ある程度の規模の人間が並行的にメンテナンスできるほどに、こなれていないと手は出さない。慎重すぎるとの声もなくはないが、それ故に築き上げられた信頼も大きい。そういった部分がコアビジネスになっている会社は案外多いだろう。 メンテナンスが出来ることは、一発芸では成り立たない継続性を要求する。そのためには、開発者が疲弊していては困る。しかし、慈善団体ではないので、裏打ちのない予算の確保はできない。だから正等対価として予算を確保できる理由や体制が必要だ。 ■ こうした議論の難しい点は、開発者が大らかなサービス精神を捨て、どんな質問にも「その件については検討後に改めてご返答させて頂きます」とか言い出すことだ。それは前述のとは別の「壁」を作ってしまうことになりかねない。 風通しの悪い路地裏に迷い込んだ気分がする。そして、そうした関係から新しい何かが生まれるとは感じられない。そもそもが忙しい人達が後で答えるとなると、かなりズレた時期に答えが返って来ることが多い。阿吽の呼吸どころではない。息が合わない人とは一緒に走れない。一緒に走る気力が萎える。 ■ 人材を「人財」と称して、重要性を強調する風潮は高まっている。しかし、IT業界のように技術革新の早いところで、その「価値」を「(人事)評価」にまで押し上げて考える方法論はまだ確立していない。ここ数年で見直された価値を見抜き数値の形に変換できる人事評価者も育っていない。 未だに、基本的には「人月計算(月単価幾らで開発者を丸ごと抱える方法)」で開発は見積もられているし、開発ツールの性能が上がり、オープンソースも認められるところまで来ている。それは、ますます予算が圧縮される傾向を強めていると言える。時間給だけでは成立しないギリギリの崖っぷちまで来ているとさえ見える。 人月計算以上の「付加価値」を何かで訴えるしかない状況が迫っている。それは、人のよいデザイナの長所短所も含め、新しい価値観に立ち往生している人達の長所短所も含めて、何か新しい世界を築き上げる時期にさしかかりつつあることを暗示しているように見える。 何か一部分ずつ改良していく時間の猶予もないのかもしれない。一度にまとめての変革。人のいい職人さんが、人のいいまま仕事を続けていけるのがハッピーなことには間違いないのだから。 以上。/mitsui

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