コラム No. 90

会社を騙す RIA(Rich Internet Application)系のプロジェクトについての話を開発者から聞く機会が増えた。セミナーや小さな会合や、場は様々。何に苦労して、何をやりたかったのか。ご本人の口から語られる言葉には、やはり重みがある。 成功事例には、幾つかの共通点がある気がしている。発注するクライアント内に熱意のある方が居る。その熱意が、単なる「担当者」という域を超えている。そのプロジェクトを自分の子供のように思っているフシがある。寝ても覚めても、そのことを考えていることが、言葉の端々から伝わってくる。 そして、大抵同じ台詞を口にする、「会社(上司)を騙して(たきつけて)、このプロジェクトを進めました」。 勿論、横領とかそういった類の話ではない。それでも多くの人が「騙す」という言葉を好んで使う。ここに、会社内の様子が垣間見える。会社としては、そのプロジェクトで利益を得るという確たる予測などなさそうだ。「コイツ(担当者)がそこまで言うのなら賭けてみよう」、そんな会議がイメージできる。 数字で経営を進めるというのは基本の基本だろう。費用対効果という概念が大切にされるのも道理である。何をやるのに幾らかかったか、グラフで示し、類似のものと比較し検討する。そうやって物事が全て決められるなら、ある意味ハッピーかもしれない。 でも、費用に換算できにくいものも存在する。例えば、コミュニケーションや個人的ネットワーク。誰と誰が会話を交わすことの金銭的価値をどう評価するのか。たわいない与太話が、ビジネスを生み出したなら有効で、単なる与太話に終わったら無意味なものなのか。 そもそも、Webはコミュニケーションだ。会話や対話を金銭換算することは難しい。そうしたことを分かりつつ、それでもここに投資をした方が良いと進言する場合、「騙す」という表現に落ち着くのかもしれない。 ■ そして、騙すのにも資格が要る。「振り込め詐欺」のように「オレオレ」と言っただけで話が通るケースは少ない。「コイツがそこまで言うのなら」と思わせるにはそれなりの歴史が必要だと思う。 人よりも法や制度を重視してきた人が、エンドユーザとの対話に目覚めました、と対話活性提案をしても回りの人も困る。「コイツがそこまで..」と思わせるには、「コイツはいつもそんなことを言っている」という前提がある。 システム設計の会議の度に、エンドユーザの気持ちを考えましょうと言う。データベースの話をしているのに、やはりここでエンドユーザはこういった操作をしたくなるので、ここにこのフィールドを追加しましょうと言う。表形式になりさえすれば良いと大半のメンバが思っているのに、1ピクセルにこだわって見栄えを調整する。 「また始まった」とか「やれやれ」とか、多くの人に思われる歴史。当人にとっても、その人を抱えるチームにとっても、ハッピーとは言い切れない長い時間。「エンドユーザのことよりも、チームのことを考えろよ」等という、設計者として本末転倒な会話もなされたかもしれない。 システム系の会社なら「Web馬鹿」とか「デザイン馬鹿」、デザイン系会社なら「システム馬鹿」や「カタブツ」。「木を見て森を見ないどうしようもない奴」、そんな陰口をたたかれた時代もあったかもしれない。勝手に敗者復活戦のようなドラマを組み立てるが、まんざら外れていないと思う。 そして石の上にも三年。言い続けた者にチャンスが与えられる。体制やチーム媚びることなく、エンドユーザの代弁者としてWeb開発に関わった重みが発言力を持つ時が来る。 そんな熱い想いを聴いていると、こんな人と仕事がしたいとと思わされる。ここまで来るのに苦労しましたとか、照れ笑いの後ろに、揺るぎない信念がある。一見会社に抵抗して趣味に走っているように見えても、実際は「会社がどう見られているか」を最重視しているからこそ、寄らば大樹の陰な動きができないのだ。今までとは違う愛社精神を感じる。「馬鹿」と呼ばれようと、会社を守るという意思。エリートだけが会社を支えている訳ではない。 ■ 今や、Web(ネット)は常識的な位置付けがなされつつある。同時に、奇抜さよりも、誰にでも分かる情報提供・情報共有の場として成熟の途についた。会社概要や製品紹介のページ構成にパターン性が見えてきて、どのサイトも同じように見えつつも、情報を探すアタリが付けやすくなってきている。 そんな流れの中で、新たな付加価値のための模索も活性化されつつある。皆と同じものであるならば、制作費が叩かれるだけである。信じがたいページ単価でWebサイトが構築される。でもそれを続けては、情報の共有スキルが会社もユーザも向上しない。 硬直的な情報提供方式に抗して育ってきたWebが、自らの硬直性の壁にぶち当たっている。「今のままで良いじゃないか、昔よりは便利になったんだから」、「更に投資する意味が見えない」、そんな声に戦いを挑む人達が、声を発するようになってきた。そこに「騙す」人と、「騙される(騙されても良しとする)」会社が存在する。 そして、そうした会社が新しい流れを創りつつあるように見える。Webがもっと一般的になってきたとき、この「騙す」とい言葉は別の言葉になっているかもしれない。 注)「馬鹿」は言葉としては不適切かもしれませんが、親しみを込めたこの表現が最適と考え、用いました。悪意はありません。 以上。/mitsui

コラム No. 89

引越し 年度末の忙しさの中、沢山の仕事を置き去りにして、引越しをした。久々の肉体労働。いつもは重いPCカバンを持つことにしか使わない筋肉を酷使しつつ、頭の中はWebのことを考えていた。 けれども、この引越しの数日間でネットにアクセスしたのは数回のみ。こんなに意図的にネットから離れようとしたのも初めてかもしれない。キー操作だけで目当ての情報に辿り着ける簡便さとは対極にあるモノを体験した。 ■ 引越しでネットが意味を成すのは、引越し屋さんへの最初の連絡程度。自分の持ち物のリストを入力していっても、結局のところ見積りのプロに来てもらうしかない。我が家は押入れにまで本を押し込んでいたので、プロの見立てでも大きな誤差が出た。積み残しは自力で運ぶことにして、大物だけをお願いする。 家の中という、究極のプライベート情報を、見ず知らずの若い衆に運んでもらう。お金がなかったので、自分でも運ぶのを手伝う。年齢差を感じつつ、いたわられつつ、荷物がトラックの中に消えていく。 一緒に汗をかき、息を切らして、指示もする。昼時にかかったので、誘って一緒にケンタッキー出前を食べる。少しぎこちない会話から、一番若い人が16歳で、妻と同郷であることが分かる。 妻がおどけて先輩面して話す。どこかで顔を合わせていたかもね、と言いつつ、妻がその地に居たときには彼が生まれていないことに気付く。打ち解ける、とまでは言えないまでも会話が弾む。 春の引越しシーズンの忙しさは、Web屋に勝るとも劣らない。布団で寝ていないとか、昨日は一時間でしたとか。急に親近感が沸いてくる。なんだか、後輩のようにさえ感じる。 こんな会話をしばらくしてこなかったことにも気付かされる。Webで毎日のように見知らぬ人と出会っているのに。たわいない会話かもしれないけれど、大切なことだと改めて思う。食後の作業はずっと円滑に進む。会話が潤滑油になっている。 ■ 子供との距離にも影響があった。中一の息子と物を運ぶ。義姉も来てくれていたので、荷物上げ下げの掛け声は基本的には敬語(丁寧語)に統一していた。「持ち上げます」、「ありがとう」、必ず声に出した。引越し屋さんも年齢関係なしに敬語に近い言葉で声掛けをしている。命令口調より温かみがある。 運動部に属する息子に、日頃キーボードしか打たない私が勝てるはずがない。一緒に運んでいても、直ぐに息が切れる。息子がいたわってくれる。少し情けなくも感じる。 高いところの物を背伸びでぐっと引き寄せ、私が支えて彼がヒモで縛る。到る所に棚などを作ってカスタマイズしたので取り外しも大半を任せた。間近に見る息子に、いつの間に、こんなにガッチリしたのかと感心する。息子は一人前扱いされたようで、心なし嬉しそうだ。 娘も頑張ってくれる。優柔不断な妻の買い物に付き合い、即決する。細々とした作業を嬉々としてこなしていく。いつの間にこんなに頼りにできるようになったのか。張り切りすぎて翌日熱を出すまで、十一歳であることを忘れてしまった。 平日顔を合わせることも減ってしまった生活を反省する。こんな頼り頼られる関係や瞬間は久々だ。一緒に汗だくになるなんて、幼時の時以来かもしれない。 ■ 荷物を運び出し、お世話になったご近所さんに挨拶に行く。小さなタオルを添えてお礼を言う。特にお世話になった方と大家さんにはお菓子を。余り仲が良くないと聞いていた、その二人が同じ台詞を返してきた。「そんな気遣いいらないのに、お金使わせちゃったねぇ」。なんだか微笑ましい。 七年間過ごした家の最後の掃除をして、ブレーカーを落とし、水道の栓を閉めて、鍵をかける。築40年ほどの、台風のたびにビクビクしながら夜を過ごした家を故郷のように感じてしまう。子供達の大切な小学校時代を支えてくれた家。感傷的だと思いつつ、感謝の念が湧き上がる。 新居の挨拶廻りでは、挨拶に来たと聞くと家族中が玄関に集まってくれる。分からないことは何でも聞きなさい、と言ってくれる。ご近所さんは昭和30年の分譲で移り住んできた方達が多いとのこと。私は生まれてもいない。 ■ 実は一月前にパソコンの引越しもした。個人データを移し、アプリケーションを入れ直し、ただただ面倒で時間のかかる作業。特にThinkPadからThinkPadへの引越しだったせいもあり、CPUが上がろうと、HDDが倍増しようと、感動は薄い。デザインに殆ど変化がない分、ワクワク感が少ない。業務用という感じ。 利便性を求めて、人との直接接点を敬遠し、デジタルの世界に引きこもりがちな生活だが、人との接点以上に面白いモノはない。Webで出会う感心させられる意見に対しては、間違いなくその人自身への興味がわく。 ここ数日間、ネットに無縁な人たちにばかり会っている。どの方も、パソコンすら持っていないかもしれない。でも、豊かな情報に溢れている。検索可能な情報だけが、「情報」ではない。デジタルで現せるものだけが、「情報」ではない。そんな当たり前のことが頭に浮かぶ。 Webでそれなりの情報検索は可能になっている。とても便利で離れて暮らすことも厳しい。でも、未だWebが伝え切れていない情報がある。将来は、今語られている「ユーザ体験」とは別次元の体験を提供できる可能性もある。 新居の横の公園では、桜が咲き始めた。開花情報ではなく、この春めいていく雰囲気もいつかWebに載せることができるだろうか。 以上。/mitsui”まだまだダンボールの山の中より”

コラム No. 88

忘れてはいけない ある雨の日、電車に乗っていると、五十台半ばの女性が大きなリュックを背負って乗り込んで来た。自分の横幅と同じ程の厚みのリュックを担ぎながら、文庫本を読み始める。リュックの中身は何かゴツゴツしたもので、電車が揺れるたびに私の背中を刺激する。リュックに付いた雨の雫が、接点を濡らして行く。 彼女の立場から見ると、何も落ち度はない。自分の荷物を自ら背負い、自分の趣味の本を読む。誰に迷惑をかけている訳でもない、と思っているだろう。でも、少し混み始めた車内で隣に立つ者には違う。体の部分の密集度と足元のそれには差がある。せめて、荷物は降ろして欲しい。 多分一言声をかければ、大人の対応をしてくれる予感があったが、黙っていた。なんとなく、荷物を降ろせとは言い辛い。自分の背負っているものを、どこに置こうがその人の勝手かと、隣に偶然居合わせたのが不運だと、勝手に諦める。 ■ Web屋として生きていく上での問題を幾つか書き綴ってきた。どの問題も、基本的には人と人との接点の話だ。クライアントと開発者、エンドユーザと開発者、デザイナとエンジニア、仕切る者と仕切られる者。 左右に「人」を置き、真ん中に「情報」を置く。左から右に、それを流す。右から左にそれを流す。そんなやり取りを机上でシミュレーションして、左右両者にとって「良い状態」を作り出そうとする。 Web屋の仕事の本質がそんなところにあるのだから、人との接点にどうしたって焦点があたる。画家が画材を熟知して絵を描き上げるように、Web屋は人を知ろうと努力する。そして知りたい対象は、「人は何ぞや」だけに留まらず、「どういった関係が望ましいか」に及ぶ。それをデザインするのだから。 勿論、望ましい関係に唯一の解がある訳じゃない。想定するユーザや状況や、扱う情報によっても様々だ。そういった制約事項の中で「よりよいもの」を求めて思索を重ねる。その過程が辛くも楽しい。 けれど、自分達のアウトプットとエンドユーザの関係には貪欲に取り組めても、自分達と直接接点のある「関係」のデザインには無頓着な場合が多い。諦めるケースも多い。そんな大人気ないことを言うなと諦め、常識知らずと言われるのが怖くて諦める。既存にない情報提供や関係構築が仕事なのに。 ■ 関係改善を諦めた時に、決まって頭の中に流れる曲がある。中島みゆきの「忘れてはいけない」。同じ歌詞が何度も繰り返される、「忘れてはいけないことが必ずある 口に出すことができない人生でも」。 Web屋にとって忘れてはいけないこと、それは何だろう。私にとって忘れてはいけないこと、それは何だろう。その軸足をそらした時点で、自分がWeb屋ではない別のモノになる境界線。私の仕事と後になっても分かる部分とは。 何度か、自分なりのWeb論みたいな話をするチャンスを頂いた。その度に色々と語るのだが、語り終わっても、少し語りつくせなかったという感覚が残る。何時間もの時間枠を頂いても。 先日は、セミナー自体が終わってから参加してくれた人が居て、参加できなかったことを残念がるので、一言で要約した。「システムだけでなく、人間のことも考えましょうよ、としか言っていませんよ」。クライアントと絡む製作過程においても、組織内の役割分担においても、それが要だ。もっと、よい関係でプロジェクトを進める方法があるのではないかと、問題提起だけをしているのかもしれない。 そこに、何かを諦めたくない、何かを忘れてはいけないとする自分が居る。そして同時に、実際の現場では何かを諦めている自分がいる。言いたい言葉を飲み込んでいる自分が居る。語るようには生きてはいない。そこに歯切れの悪さの原因があるのかもしれない。 NHKの「プロジェクトX」の決して諦めない姿に感動しつつ、毎日の仕事は単純なルーチンワークに満足してしまいがちな自分。自分なりのWeb業界分析等を話しながら自己矛盾に気が付かされる。 ■ 理想論に近づこうよと語りながら、改善の進捗が遅いと苛立っているのかもしれない。普通の時間帯に寝起きするという、人間らしい生活をしながら、Webの業界に携わっていたいと願っているだけなのに、それすら果たせない。 でも、改善策を練りながら、これ位頑張っているんだから未だ良い方じゃないかとか考えたりもする。疲れが溜まると、よしよしと自分の頭を撫でたくなる。 そんな時、やはり一つの詩が頭に浮かぶ。最後まで言葉を噛みしめていくと、いつもガツンと頭を殴られたような感覚が残り、頑張る気力が沸いてくる。 「自分の感受性くらい」 茨木のり子 ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 苛立つのを 近親のせいにはするな なにもかも下手だったのはわたくし 初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 「自分の感受性くらい」茨木 のり子 / 花神社 / ISBN:4760214038(1977/03) ■ 荷物を背負い込んだオバさんに言葉を飲み込んだ自分も、何かを変に背負い込んでいるのかもしれない。社会常識という言葉に近い何かを。ちょっと気を利かせて、荷物を下ろせば、周りの人も自分も楽になれるのに。言い訳しながら、何かを背負い込み続けているのかもしれない。「ばかもの」に成り下がる前に、まだやれることがある。 以上。/mitsui

コラム No. 87

阻むもの Webシステムの開発方法を話す際の最近の話題は、「見積り」に偏ってきた。どの技術を組み合わせて作るか、どういったアイデアで勝負するか、そういった観点の大切さは普遍だ。けれど、今はそうしたことよりも、どう開発体制を「維持」するか、の重みが増している。 背景には、作り出す価値を分かってもらえないというジレンマがある。アイデアを金銭に換える「方程式」がない。どんなに悩んでも、どんなに時間をかけても、どんなにアクセス数が増えても、支払われる賃金が上昇しない。豊かなアイデアは、ある程度以上の生活がないと育たない。 何を作るかという「仕様」が決まる前に、予算が決まっている。その後、余程大きな事件でもない限り、それが見直されることはない。但し、仕様は変更される。コロコロ変わると言っても言い過ぎではない。その理由は何だろう。 ■ クライアント側の流れとして、発注するという時点では、技術的に何が可能で何が不可能なのかを把握している人は殆ど居ない。そもそも、そのアイデアを買うために外注するのである。だから、それ自体は当たり前のことである。 そして、打合せを重ねると、共通の(業務知識やプログラミング技術も含めて)技術的な理解が広がっていく。その進度は、担当者の個人差が大きい。どんどんと理解が進む人も居れば、毎回同じ技術的障壁にぶつかる事柄を「できますか?」と聞いてくる人もいる。 そこの部分では、技術コンサルまでも請け負っている仕事なら、説得というか教えるしかない。しかし、大抵は通常の打合せ程度しか時間の拘束はされないという前提の仕事が多い。クライアントと開発社の両輪のスピードが大きく異なると不協和音が響きだす。 知識が上昇しても、採用する技術を理解すればやりたいことが増えてくる。そして、多くの場合ユーザビリティの観点でもやりたいこと(チャレンジしたいこと)が増えてくる。こんなアイデアはどうだろう、あんな仕掛けはどうだろう。議論するだけだと楽しいが、絵に描いた餅では意味がない。誰かが実装しなければならない。そして、それには時間が確実に必要だ。その楽しさと表裏一体の部分に落とし穴がある。 勿論、最初に決めた仕様を着実に実装していく、ウォーターフォール型を今さら推奨はしない。時間がある限り、お客さまのためのより良いアイデアを練るのは歓迎すべきことだ。重ねる打合せの中で芽を出したアイデアを形にできる新しい体制こそが求められている。 そうした新体制への過渡期にあるのだと思いたい。まだ正しいものが見えないからこそ、模索しているが、辛い状況にも数多く出会う。そして、そういった状況では、お金を払う者の方が優位に立つ。技術を提供する側は何故か劣勢に立たされる。対等な契約関係のはずなのに。 そして、そういった上下関係がついてしまった時点から、真のパートナーとして歩めなくなってしまった時から、そのプロジェクトがハッピーな仕事として成立する可能性は激減する。そして得てして、エンドユーザにもハッピーな結果をもたらさない。 ■ では、どうしてこうしたことが起こるのだろうか。今までの私の約十年の経験から考えると、少なくとも下記のようなポイントがある: 担当者が知識習得や思索に時間をかけない: 新しいことを学ぶのが好きでない(自ら時間をかけない) 別の仕事を抱えていて、そのプロジェクトに割り当てられる時間が、そもそも打合せの時間程度に限られている(体制的に時間をとれない) 技術的優位者が、教えるのが下手(伝わらない): 見事なコードは書けるが説明ができない(そもそも説明が苦手) 何のためにその技術を使っているのかという戦略的説明ができなくて、眠くなる技術解説に偏る(教えるべき事柄にズレがある) 説明自体を避ける(説明したくない=俺に従え) 金銭感覚の欠如: 「正当対価」という概念を知らない(社会人としての未熟さ) 担当者が「下請け」を「パートナー」と思はない(搾り取ればよい) 合意の欠如: 合意して進んでいくというプロセスを怠たる(時間をとらない) 合意の大切さを軽んじる(合意と仕様変更の関係を考慮しない) 無戦略: 何のためのプロジェクトか、何人か理解していない(お荷物) 何のためのプロジェクトか、全員が考えない(無軌道) プロジェクトに火かつく時、基本的にはメンバー全員の気持ちも怒りで燃えあがる。情熱を注いでいるプロジェクトであればある程、その度合いも大きくなる。対象が人災であれ、体制災であれ、突発的な事故的災害であれ。 でも、怒りで何かが解消された経験はない。呑んで憂さをはらしても何も解決しない。時々立ち止まり、課題整理をして、対決方法に想いを巡らせるのも大切なことだ。私は問題を解消する方法は、二つしかないと思っている(実行はできていないが、まだ): 1) 気が付いた者が何とかする 2) 相手も気が付くように仕向ける ■ まだまだ妙案に出会えた訳ではない。毎回が試行錯誤だが、方法は様々ある。担当者に宿題をだす。打合せの前日に前回議事録を付けてリマインダーを出す。mailではなくMailingListを用いる。ドキュメントで工夫する(技術ドキュメントだけでなく、コンセプトシートというプロジェクトの目的など戦略的な要注意事項のみを記したもので、毎回無軌道にならないための道標など)。 前回の議事録reviewから会議を始める。決裁権のある方を討議メンバにする。担当者がそのまま上司に提出できる資料を提供する。説得して自分が必要とする他部署も巻き込む。金曜夜中に月曜朝一の仕事を頼まれたら、次回は木曜朝にこちらから電話する。 伝える技術を磨く。分かってもらえないのは、下手な伝え方だからなのだ。上手ければ、相手に依らず伝わるはずだ。場合によっては、選手交代も考慮しながら作戦を練る。 Web屋としての知恵ではなく、社会人の知恵だ。でも、それが必要になってきている。毎晩の徹夜は「気合だーッ」だけでは乗り越えられない。生活と命がかかっているのだから。 Web開発の実態を分かりつつ、プロジェクトを円滑に進められる人が必要だ。以前、Webプロジェクトには「タイムキーパー」が必須だとするコラムを読んだことがあるが、そう呼んでも良いかもしれない。あるいは、ネゴシエータ。あるいは真のプロジェクトマネージャ。 ■ 私は見れなかったが、友人が教えてくれたTV番組がある。引越し屋さんの競技会。競技内容は、重いものをどう運ぶかという肉体技術系から、最初の必要ダンボール箱数の見積りと実績との比較などの予測系まで、様々。 今後のWebアプリケーション開発でも、こんなのをやって見るのも良い資産になると思う。最初の見積りと開発終了後の実績との比較。機能だけではなく、要した「人月」の時間数。打合せに要した時間。問題となったものが、技術系なのか人災系なのか。分かり易い指標で比較できたら、学ぶべきことが一目で伝わるかもしれない。 RIAコンソーシアムに経産省の方を招いて話して頂いた時、今後の日本の技術力を磨いていくための課題に触れた。いわゆる「下請け」が長時間労働で青色吐息状態であることを国は知っている。そしてそれを健全な状態だとも思っていない。つまりそうさせている原因の改善にも着手したいのだ。 Web(ネット)という、情報伝達手段・情報共有システムが、今後の知識産業の土台となって行くのは自明である。それをより豊かにするための新たな努力が、Webプロジェクトを依頼する側にも、依頼される側にも、求められ始めている。 以上。/mitsui

コラム No. 86

モラル 最近社外へ出る仕事が増えて電車に乗っている時間が長くなった。そのせいか嫌なシーンに出会うことも増えてきた。割り込み乗車。それも、初老の紳士や老夫婦のモノ。私が出会うモノの八割は若者のではない、人生を半分は消化した人達の愚行。 私自身は立っていることが多いのでどちらでも良いのだが、列から離れて立っていて、電車が来ると、さも列が目に入らないような装いで急いで入り込む、座りたいという気持ちは分からないでもないが、その姿が哀れに見える。 今までの人生の苦労がいかに賞賛されるものであっても、全部ドブに捨てているように映る。何か常識的なものを破って得をしているように見えて、実は多くを失っているような感じ。 ■ 先日セミナーの会場で、名刺交換をしたくて列を作って待っていた。私の番が来て、自己紹介を始めた。その時、その相手の方の肩をちょんとたたいて、「久しぶり!」と話をしだした男が居た。 驚いた。その無礼さよりも、その男が数時間前に「インフォメーションアーキテクチャ(IA)」について御講義されていて、人間中心設計について語っていたことに、驚いた。よりによって「人間中心開発手法」。 肩をたたかれた方は、待っていた私(しかも私の後ろにも人が居た)に気遣いながら、早くその「旧知の仲」との会話を終わらせようとしてくれている。それに気付かずに人間中心設計論者は顔色ひとつ変えずに話し続けた。ため息以外出ようがない。 どんな高尚な話も、現実が伴っていないと哀れだ。複雑に入り組んだ情報の塊を解きほどき、分かり易い情報構築が出来たところで、目の前にいる人の列を無視する人の言葉にどんな説得力があろうか。 ■ これもあるセミナーの話。普段よりも多くのメディアが協賛しているセミナー。専属のカメラマンが入っているらしく、セッションが始まるたびに、カメラマンが動きだす。小さなデジカメではない。大きなレンズの付いたプロっぽい人。 でもプロじゃない。講演者の声が聞こえないほどシャッターを切る。素人も驚く。講演者の話が乗ってきたところで、前に進み出る。一番前の床に座り込み、連写する。約10秒、パシャパシャと音が響く。約一時間の講演で、3~4回。パシャパシャパシャ。会場中に響いていく。気にならないのは本人だけ。 このカメラマンは何を撮っているのだろう。講演者を撮りたければ別途やるべきではないか。会場の雰囲気をぶち壊しても気にせず撮り続ける。撮ってはカメラの裏の小さなモニターで何やら確認している。これほど数打たなきゃいけないカメラマンを見たのも初めてだった。 もっと驚いたことは、そのセミナーはケータイカメラによるモバログもやっていたのだが、担当者がケータイをかざしているその真ん前にいきなり滑る込むように入り込んでパシャパシャとやりだしたときだった。写真を撮る者との共有意識もない。 きっと、メディアに出すときには山ほどの「良い写真」があるのだろう。デジタルだから元手もかかっていない。撮るだけとって選んで消去すればよい。そして、その画像には、聴衆の不快な顔も講演者の迷惑そうな眉間のシワも映っていないだろう。でも参加者の記憶には残っている。そして、本当の会場の雰囲気ではないものがメディアに載る。写真が泣いているよ。 ■ 自慢できる話ではないが、私自身もそれほど礼儀正しい訳ではない。人生の先輩方には色々と迷惑をかけたし、白い目で見られたことだってある。「若気の至り」が、他の人よりも少し長めの自覚もある。 そんな社会性の無さを横に置いて、自分の手がけるサイトだけはちゃんとしようと努力し、それで良いと思ってきた。どんな偉そうなセオリーよりも、自分たちの見たエンドユーザの利便性を何事も中心に進め、多少クライアントを無理やり説得しようとした時もあったかもしれない。 自分のエンドユーザに対するアンテナが錆びないように努力してきたし、驕り高ぶりには特に細心の注意を払ってきた。けれど、もしかしたらそんな熱意の部分がどんなに正しくても、間違った道で押し進めてはいなかったろうか。 先ほどのIA氏や自分の写真だけを撮ることに集中していたカメラマンの姿を見て考える。IA論やカメラの技術が如何に高かろうと、正論であっても、守るべきモラルを無視したが故に、聞き届けられなかった部分がはなかったのか。積み上げた何かを台無しにしたつまらない行為を私はしたことが無かったか。 ■ Web/IT企業の既存構造への挑戦が続いている。そこでは、その論ずるところが正しいかどうかすら取り上げられなくて、やり方だけがひたすら取り上げられているようにも見える。 想像もできない程の巨額の動く世界ではあっても、私でさえ「もう少しスジを通せばここまでモツレなかったのでは」と思わされる。既得権を持つ側の防衛方法も、少しえげつなさを帯びてきた。互いが一線を超えている。 正しいだけでも、今流だけでも、物事は進まないのかもしれない。あるいは、ここまでしないと現状を変えられないという、強行突破、まさに究極の閉塞感打破の方法しか、新しい者には残されていないのかもしれない。 それでも残されるシコリが気にかかる。観客として見つめている者はエンドユーザである。公開喧嘩の最中に、どう感じるかは大きくブランドに影響する。攻める側も守る側も、何かを失っているのではないのか。どうすれば良いのかなど案は浮かばないけれど、「これで良いのか」と違和感を感じる。 ■ 疲れた社外打合せの帰り道、電車のドアに寄りかかっていると、私より一回り大きくタバコ臭く耳にはイヤホンをつけた若者が乗り込んで来た。タバコが苦手な私は、とっさに少し離た。彼も私に背を向けてドアに寄りかかる。 しばらくして電車が揺れて、バランスを崩した彼に足を踏まれた。即座に彼は振り向き、「すいません」と聞こえる声で頭を下げた。驚いた。そして気持ちが晴れた。新しいものと古いものとに接点はあるのだと。 アクセシビリティの話の後押しもあって、漸く、情報デザインやIAの話が話し易くなってきた。でも、まだ課題も多いし受け入れられてもいない。昔から活動している者にとっては、何を今さらという話でも、世間一般には初めて触れる方々も多い。新しい概念を、古いしきたりにも合わせて発信できたなら、浸透は促進されるのかもしれない。打てる手段があるなら未来は暗くない。 以上。/mitsui

コラム No. 85

DESIGN IT! PreConference 2005 2005年2月28日から3月2日までの3日間、ソシオメディア主催のカンファレンス「DESIGN IT! PreConference 2005」の主観的レポート。 http://www.designit.jp/ ソシオメディアがセミナーを開く、3日間、しかも有料(全日だと5万円超、けれども学割は7割引)。ダイレクトメールを見ながら、「アクセシビリティだけで3日間はきつくないか」などと考える。でも、講演者やタイトルを見ると、そんな単純な仕掛けではないらしい。 「DESIGN IT!…」の「IT」は、「それ」であり「アイティ」でもある。デザイナがデザインするモノは何であるのか、タイトル自体が問いかけだ。 並走セッションが多いので、全部を見れない構成なのだが、基本的には技術カンファレンスではない。コンテンツマネージメント(CMS)トラックでは、各ベンダーが30分単位で自社技術を語っていたが、純粋な技術論の話はここだけだったろう。「手法」が語られる場面も多かったが、その技術的な話よりも、それらをどう扱うのか、運用側の心理面で大きく考えさせられた。何人かの講演についてコメントと紹介を。 ■B.J.Fogg 氏 (Stanford大学言語情報研究センター Persuasive Technology研究所所長) http://www.bjfogg.com/ オープニングセッションで氏が語るタイトルは「人生とキャリアに影響力のあるデザイン」。まるで人生指南のようなタイトルだが、「デザイナの皆さん、自分の人生デザインしてますか?」という問いかけ。サイトはデザインしているが、自分の5年後のイメージが希薄な私にはインパクトのある問いかけだ。 氏は、ユーザがどのようにしてWebサイトの信頼性を得るのかを調査し、コンピュータが既存メディアと異なる点をまとめ、何が強烈なインパクトを持って受け止められるのかを研究している大家。学際派代表としての参加か。 氏は大きなインパクトで成功している戦略には8個の共通項目があるという: Praise(ほめる/ほめられる->人を動かす) Persistence(ねばり強い/無限の反復操作=コンピュータの特性) Barrier reduction(障壁を軽減する) Immediate rewards(即座に結果が分かり褒美がある) Pain & fear(痛みや恐れ) Social influence(社会的影響) Stories(物語性/原因と結果や効果への流れ) Hope(希望や期待) 何かを売らんとするなら、これらの項目にアピールする要素があるかで、市場に受け入れられるかどうか予測ができるだろう。「戦略」という言葉は私も使うが、それを体系立てて話せてはいない。感覚的なレベルで口にするから、伝わらないのかと反省させられる。後ろに膨大な調査データがあると説得力が異なる。(「Persuasive Technology」、日経BP社より近刊予定) ■J.J.Garrett 氏 (アダプティブ・パス共同経営者) http://blog.jjg.net/ ジャーナリストからWebに入っていった実務派でありながら、開発プロセスを視覚的に分かりやすく表現できる大家。「ユーザエクスペリエンスを構成する5つのレイヤー」と「Web開発チームを成功へと導く9つの鍵(柱)」は、この業界にいるのなら一度は見るべき俯瞰図だろう。 ユーザエクスペリエンスを構成する5つのレイヤー: Strategy(User Needs/Site Objectives) Scope(Function Specifications/Content Requirements) Structure(Interaction Design/Information Architecture) Skelton(Information Design/Interface Design,Navigation

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コラム No. 84

嵩高紙(かさだかし) 「嵩高紙」という紙がある。最近のベストセラーの陰の立役者と呼ばれてる紙。書籍用紙として開発され、今では雑誌/ムック/カレンダーなど多岐に渡って活用されている。 従来の紙に比べて、軽くて持ち運び易く、その割りに厚みがあって「読後の達成感」を得やすい。しなやかでページをめくり易く、裏側のページが透け難い。更に、写真やイラストを綺麗に印刷できて、紙の変色やインキの色褪せが少ないので長期保存にも向いている。 特徴だけを書くと、理想的な紙で、下記のベストセラーに使われたと言われると、更に凄い紙だと思わされる: 世界の中心で、愛を叫ぶ / 316万部 冬のソナタ(上下) / 計122万部 蹴りたい背中 / 126万部 蛇にピアス / 53万部 生き方上手 / 123万部 世界がもし100人の村だったら / 116万部 (発行部数は少し古くて2004.7時点) この紙の開発元である日本製紙(株)の担当者の話を読んだ。製品化に向けて動き出したのは、96年頃。様々な試行錯誤を重ね、開発中は紙が切れてしまうケースが多発し、諦めかけたこともあったという。更に曰く、「もしそこで諦めてしまっていたら、今のベストセラー本はなかったかもしれません」。 ベストセラーが、作品だけの力で成立している訳ではない事実と、そのために成されている研究開発の重みに、少し驚かされた。失礼ながら、裏が映っている印刷には文句を言いはするが、紙の品質にそんなに期待もしていなかったというのが正直な感想だ。更に、それが96年から着手されていたとは。 ■ 本来、研究開発というのは、かなりタフな仕事だ。いつ日の目を見るかも分からない、けれど、今やっていることの先に光明が見えると信じる者だけが突き進める。信じてはいても自分の立ち位置を常に疑う。形の見えるノルマを達成していく仕事も辛いけれど、ノルマの形を成さないプレッシャーも相当きつい。 切れた紙の山を見つめて、担当者や上司は、何を考えたろう。更に進むべきか、退却すべきか。そもそも無理な行程だったのか、辿り着けるはずのない頂だったのか。研究と検証と反省の中で、重い空気を吸ってきたと想像する。 価値が分かってもらえない人から見ると、資金と時間をただ浪費しているようにも見える。研究室にこもるよりも、今ある製品/商品を一個でも売りに行けば良いと陰口もたたかれたかもしれない。「紙」の文化を知らないので想像だが、そんな夢追い仕事は止めて、売れ筋の紙の色バリエーションでも作った方が「会社のため」だとかも言われたろう。 それでも、退却の判断をしなかったから、今がある。そして、良い作品とタッグを組めて、更に大輪の華を咲かせた。担当者から見れば、この紙を使うために、作家が作品を仕上げたようにさえ思ったんではないだろうか。嬉しかったろう。 ■ 研究開発には、いつ芽を出すか分からないという壁もあるけれど、タイミングという壁もある。景気の良いときは、「余力」で多少成果が上がらない研究開発もやらせてもらえる。しかし、景気が悪くなると、真っ先に切られる仕事でもある。 会社自体がなくなってしまっては、研究開発もあったものではない。なので、会社の波に沿った形で研究開発が営まれるのは道理である。しかし、景気が悪くなった後に、好機の波が来るとしたら、研究開発はその時のバネになる。 研究開発に限らず、不況のときに人員削減や採用を減らすと、どん底から這い上がった時に、競合する体力がなくなってしまっていたりする。採用数の上下は社員人口比率のイビツな分布を生み、出世競争をよりイビツな形で助長させるのと同じだ。 ■ Webの世界でも同じことが起こる。仕事が沢山あるときには、研究開発や自社ノウハウの整理をやっている暇はない、でもそれが蓄積されていたならば、今をもっと軽々と越えて行けたかもしれない。そんな想いに駆られる人は少なくないはずだ。 かつて経験したことのある問題の解法、でもそれが再利用できるほど整理されていなくて、最初から考え直した経験は誰でもあるだろう。もっと再利用を考えてまとめておけば良かったと後悔しても始まらない。その苦しんだ時は誰にも負けない博識の自信があったが、時間と共に忘れてしまっている。 仕事に追われる時こそ、次の仕事のやり方を考える好機だと思ってきた。何をもっと効率的に成し得たら、次はもっと楽にこの山を越えれるのか。一番苦しい時だからこそ、そんなことを考えられる。 先日、苦しい仕事が明けた時、倒れる前に打ち合わせをしたいと申し出た。開発に関わった可能な限り多くの人を集めて、時間軸にそって何を成し、何ができなかったかを反芻する。そして、何がいつあったなら、異なる今日を迎えられたかを話しあった。愚痴や恨み節になる寸前で、文句大会は回避した。人を攻撃してもしょうがない。「誰」ではなく、「何」に絞って話し合った。 まだまだ仮説にしかならない。単なる思い付きの可能性だってある。けれど、幾つか今まで着手してこなかった「タスク」が見えてきた。次のプロジェクトで試せるチャンスがあったなら、やってみたいことがプロジェクトの財産として残った。やり残した悔いは無いとは言い切れないプロジェクトだったが、何かを得た感触が残った。 平時のありかたが、そのグループの道を決めていく。仕事をやりながら、次の仕事のための何かを築く。継続を考慮したなら避けられない「常識」がそこに見える。同時に、その当たり前のことをし続けるための強靭な意思の必要性も。 ■ 96年から、今後の紙業界や印刷業界/出版業界を睨み、ヴィジョンを定めて動き出す。迷っても壁に当たっても冷静な舵取りをする。しかも業界全体の生命線に関わる「紙」に関してだ。老舗業界だからこそ出来る業なのかもしれない。 紙業界にとっての「紙」に当たるもの。Web屋にとって何だろう。生命線ということから考えると、「アイデア」であり「人」なのだと思う。オリジナルという概念すら混沌とするコピーが氾濫するディジタルの世界には、伝達経路上に「紙」にあたるものは無い。でも、誰が開発に携わったのかがうっすらと推測できたり、コードの綺麗さから伝えられるものは存在する。やはり「人財」が鍵なのだと思わされる。 でも、生まれたてのWeb屋業界には、紙屋ほどに長期間じっくりと煮詰められた基盤(人財環境)整備はしていないのではないか。先日も知り合いのWeb屋チームから退職者が出た、最後の台詞は「これ以上ここに居ても学べるものがない」だったとか。痛切だ。 最近、Web業界に活気が少し戻ってきたように見える。知り合いの多くが忙しくて倒れるほどだ。ここ数年の冬の時代の過ごし方がボディブローのように効いて来る時期だとも言える。仕事が増えてきたということは、飛び出す(退職)する人達にもチャンスとなる。 「次に楽にならない」仕事のやり方を続ける組織に所属する意味が薄まる。飛び出しても仕事にありつけるのだから。短い現場人生なら、楽しく、やり甲斐のある仕事に就きたいのが人間だ。 倒れる程の忙しさの中でありながら充実感を感じることが出来る働き方。Web屋にもそんなマネージメントが必要な時代に入っている。同じ作品を読んでも、その「紙」によって受け取るものが変わるように、同じ仕事をやっても残るものが異なるような「やり方」。 古くて新しい問題、人財。他業界を羨ましく感じてばかりいても、進まない。 以上。/mitsui

コラム No. 83

VFX 映画が見たくてたまらなくなる時がある。仕事が大変な時に限って無性に疼きだす。本当のことを書くと長編の歴史的なものが好きなんだけれど、なんとか時間を作っても、見るのはSF系に偏っている。 いわゆる正統派映画は見るのに疲れるからだ。それなりに体調整えて、襟を正して映画館に向かわないといけない気すらする。歴史絵巻に入れ込むには、それなりに時間をかけた助走期間も必要だ。主人公がどういった状況でどういった心境に陥ったかをじっくりと納得して、人間模様を理解しつつ、自分の気持ちも熟成させた上で結末を迎えたい。醍醐味なんだが、疲れた頭には少し億劫。 しかし、SF系は少し手軽でのめりこみ易い。有り得ない状況がとっさに起こって、監督が描きたいシーンに一足飛びに突入できる。非現実的であろうと、世界観がそれなりの説得力を伴って描かれていれば、そういうモンなんだと、意識を一体化できる。 描かれた世界観を共有できた上で、主人公達の心の葛藤を楽しむ。映像自体を楽しむ事も多いけれど、作品としては主人公達の心の葛藤が深いほど記憶に残る。逆にショッキングな映像ばかりが続くとなんだか疲れてしまう。 ■ 最近はストーリー以外に、CGというかVFXの「使われ方」に興味を引かれている。SF系の映画に限ったものではなくなったので、どんな映画にも使われていると言っても良いかもしれない。 私は、「2001年宇宙の旅」と「スターウォーズ」と「未知との遭遇」をほぼ同時期に見た世代だが、きっとこれらの作品は、それまでの映画文化の集大成的な部分を持った作品群で、それ以降の映画は、ことCGやVFXに関しては異なる流れが生まれてくる時期だったような気がする。 それまでは、別カットで撮られた映像の合成編集的な意味が大きかったのが、完全にコンピュータで作られた映像(CG)が主役にのし上がっていく時代。そして、CGの質が映画の質と誤解されかねない時代を経て、今はやっと監督の一本の馴染んだ「筆」になってきた。 映画という一つの作品の中で、CGだけが変に浮き立つのではなく、全体の中の一部分として機能するような映像に仕上げる。CGらしさをなくしたCGの使い方と言っても良い。でしゃばらず、本当に効果的に配置される映像の一つの種類、という程度にまで、こなれて来た。 映画を見ていて、本当に上手くピンポイントで素敵な映像を使われると、心に焼きつく。名優達の名演技のように、忘れられないシーンとして残る。 ■ 映画がCGという新たな表現力を手に入れてそれを使いこなせるようになってきた時間軸を想いながら、Webの世界を考える。Webは個人や企業に与えられた表現力の一つだと思えるからだ。 Web以前には、個人は自分の想いを不特定多数に伝える術を持っていなかった。それが、自分の書評であれ、育児日記であれ、おでん食べ歩き紀行であれ、自由に情報発信でき、誰かのそれらを受け取ることができるようになった。 映画がCGに振り回されたように、個人もWeb(ネットといった方がよいかもしれないが)の力に翻弄される時期を経る。Webに浸る者、逃げ込む者、閉じ篭る者、依存する者。実世界とのバランスを欠いた色んな状態が見え隠れする。それはまるで、映画本編とCGの箇所がアンバランスな映画のような状態のようだ。 そして、事態はまだまだ悪化の一途を辿っているのかもしれない。序章に過ぎない気さえする。個々人の中で、「仮想」と呼ばれるWebの世界を過大評価する力は益々大きくなっているのかもしれない。 しかし、映画がそのアンバランスな状態から抜け出したように、Webを自分の生活の一部分として受け入れ活用できている世代も増えてきているようだ。キチンとバランスをとりながら、良い意味での情報の「良いとこ取り」して身軽に生きていける人達。 やっと、Webが特異なものから日常化したものへ変わろうとしているのも感じる。無い事が想像できない必需の世界に入ってきてもいる。暗い事件の影が余りに大きいので霞んでしまうが、大きな明るい可能性だって見えている。 先日も見知らぬ女の子を救おうと、Webが輪を広げた。悪意だけではない、善意もキチンと伝えていける時代になって来た。善意を形にする場にすらなって来た。もはや仮想という別世界があるわけじゃない、現実とリンクしている。 ・あみちゃんを救う会 http://ami.heart.mepage.jp/ ■ さて、企業はどうだろう。Webという表現力を手にして何が変わってきているのか。まだその力をソシャクできないでいるようにも見える。 自社製品や自社情報を直接手渡せるパイプを手に入れながら、形だけのWebに囚われすぎて居ないだろうか。もっとうまく使えば、もっと効果的なのに、もう一歩踏み出せずに立ち止まっているように見える企業がまだ目立つ。 映画がCGやVFXなしに効果的な興行を残せなくなったように、企業もWebなしには「形」すら成していないと見られる風潮を感じる。家に玄関があるように、企業にWebは付き物で、その出来次第で嬉しい風評が広がっていく時代。 部署間の風通しの良し悪しも、企業内コミュニケーションの深さも、Webは如実に表してくれる。エンドユーザのことよりも、自分達が作り易いことを優先する姿勢など、白日の下にさらしているようなものだ。 なのに、Web屋が集ると、本質的な苦労話より、その手の苦労話に花が咲く。エンドユーザの利便性を達成する苦労話よりも、関係者間の仲裁話が多くなる。CMの作られたブランド像よりも、もっと怖い悪評が流布する可能性すら見えているのに。 CGが見た目の主役から、優れた脇役になるまで十年ほどかかったろうか。Webはあと何年で真価を問い直されて活用されていくのだろうか。CGはその十年で革新的な技術進歩を成してきた。Web屋ももっと賢くならねばならないのだろう。それは従来のやり方をキチンと見直し効率的なことも考え始めることから始まるような気がする。 CGの名シーンが記憶に残るように、Webの画面で「旨いなぁ~」と唸らせる広告や製品紹介も可能だ。折りしも、四大広告メディアの一つ「ラジオ」での広告費が、ついにネットのそれに抜かされた。Webを使う側の知恵が益々必要とされる時代に入ってきた。 映画がCGの効果をキチンと考えて作られ始めたのと同じように、企業も必須のツールとしてWebのあり方を見直して、戦略的IT投資を始める時代。単なるお化粧直しの繰り返される場からの脱却。エンドユーザに惜しみなく提供することから、喝采(ブランド)を勝ち得る時代。それは企業もエンドユーザも嬉しい時代のはずだ。そんな時代まで、あと数歩。 以上。/mitsui

コラム No. 82

匠(たくみ) 新製品紹介セミナーに行くと、今まで複雑だったことがこんなに簡単になりますよ、と色々と聞かされる。幾つもの複雑に絡み合った手順を経ていたものが、クリック一つやドラッグ一回で済んでしまったりする。 HTMLエディタであれば、HTMLとバックエンド系の連携の話がここ数年スポットライトを浴びている。HTMLのレイアウトをしながら、そこに流し込まれるデータ(DB)を指定して、レイアウトしながら実環境に近いテストが行なえる。 多くの場合、デザイナを対象とした場でそうしたデモを見てきたが、正直言って反応はイマイチだった。理由は明確で、DB設計を同時にやるデザイナが育っていないことと、HTMLレイアウトしている最中に、DBが完成している経験など稀だからだ。 実用的でない奇術や手品を見ているような反応がデザイナの側から返される。熱い拍手があったとしても、そういった機能ができないよりはマシだね、という程度に感じた。更にいえば、そうしたツールがどんなに賢くなっても、HTMLコードを自分の目で確かめる工程はなくならない事を観客は忘れていなかった。 ■ デザイナにとって常識的に揃えておくべきツールは幾つかある。そのツール自体がデザイン工程に深く根ざしていたり、コミュニケーションをする上での常識になってしまっていたりする。 そして、業界内の多くの人が同じツールを使っているという現実は、面白い状況を生む。ツールが提供するデフォルトの機能をそのまま使うことを良しとしない雰囲気を時々感じることがある。 例えば、画像処理のフィルタはデフォルトでもそれなりの数はあるし、別ベンダーのプラグインもあるし、画像フィルターだけで一冊のガイド本になる程ある。しかし、プロを自認する者は、そのままを使わない。独自の組合せを考える。意地でも標準装備品は使わない。それがデザインの幅を広げ、技術を深める。備わっているものを活用しつつ、自作することが、自分の作品だという自負につながっている。 ■ しかし、最近、標準装備の「機能」を鵜呑みにする「層」が目に付き始めてきた。簡単にレイアウトが組めます、と聞くと、そのまま使おうとする。ドラッグ&ドロップで何かを作ることに慣れきった層だといっても良いかもしれない。勿論そのまま使って効果的なら使うべきだが、そうでないときも省力化を口実に多用する者もいる。 開発生産性という言葉に追われて、ワラをも掴む気持ちなのかもしれない。開発工期が短縮化される中で、定量的な判定が出来ない「品質」に拘るよりも、開発時間という絶対尺度だけで「評価」された方が高得点を取れると、踏んだのかもしれない。 しかし、世は「体験」の時代だと、まだ声がする。ユーザビリティの声も沈んでいない。使う場面と使う人達を、キチンと想定したものだけが優れたものだと認められる。それが理想論に近いとしても、身の回りに溢れる「便利そうに装飾された不便なモノ」に囲まれるとあながち否定も出来ない。 自分達は美術作品や工芸品を作っている訳ではない、と声もする。しかし、量産品ばかり作っている手で、いつか大きなモノが作れるのだろうか、とも疑問に思う。「良い仕事」は、「良い仕事」の先にあるものだと思う。手抜きした仕事の先にいつか「良い仕事」が降って来るとは思いたくもない。 そもそも、Webサイトのように誰にも公開されるものなら、誰に「評価」してもらうのだろう。上司だろうか、会社だろうか、それとも使用者だろうか。正しい評価という概念が空ろなまま、使ってもらってこそ道具、使ってもらってこその喜びが、開発生産性という数字を追う目線の中からこぼれ落ちていく。 ■ パソコンが流行り始めた頃、多くの人達が誤解をした。パソコンが自分達の生活を「楽」にしてくれると。簡単に何かをなさしてくれる魔法の箱。でも多くの場合、パソコンはそんな人達に苦痛を残した。そんなに簡単に「楽」は入手できなかった。 パソコンは、全領域での省力化をもたらすモノではなかった。手抜きが出来る環境となるべく生まれたモノではなかったのかもしれない。パソコンはアウトプットの品質を上げるための道具なのだ。手書きよりも綺麗に、記憶よりも正確に。 パソコンが簡単にしてくれた部分を上手く活用し、パソコンの不得意な部分を思いっきりアナログに努力する。そうした二人三脚が優れたIT仕事の原型だと思う。年賀状描きでもデータ処理でも、Webアプリ開発でも。 ■ インターネット時代の副作用の一つに、開発者と使用者の距離が近くなったことが上げられる。生産者と消費者との距離も縮まった。使い手の使う場面を想像でしか垣間見ることが出来なかった時代から、気軽に質問できる位置まで互いがネット越しの隣り合わせに居る。 Webサイトを作る上での武器は、「自分がいかに快適に感じるか」という自問をどれだけ深くし、形に出来るかという点に凝縮できる。作り手と使い手が接近しているからこそ成立する関係だ。 自分ならどう思うのか。ドラッグ&ドロップして作られた既製品で満足するのか。廉価製品を手にしたときに自分ならどう思うのか。勿論、常に最高級品である必要はない。ならば今は廉価版で許されるのか、そうでないのか。使い手と使われる場所をキチンと見極めているか、デザインできているか。 IT技術者さえも「消費」されているように見える昨今、本当の意味でのモノ作りの意地とかプライド等が必要な気がしてきた。いわゆる「匠(たくみ)」の域のIT技術者が見え始めてもおかしくない。 IT技術の中の「クラフトマンシップ」。その根付き方、根付かせ方が今後の歩みを決めていくのかもしれない。頑固な玄人肌の職人気質。そんな親父達が街に溢れていた時代が懐かしい。 以上。/mitsui

コラム No. 81

石の上にも 約20年ぶりにある映画を見た。「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」。最初に見たのは、アニメ好きな友人に半ば強引に誘われてのことだった。当時、私達は好きな漫画家を核としたグループに分かれて、意味もなく真剣な勢力争いを繰り返していた。私は手塚治虫派に属していたが、高橋留美子派の友人が、とにかく興味がなくとも見るべきだ、と言い張った。 不思議でショッキングな映画だった。マンガの原作がついてはいるが、事実上そこに意味はないといっても良い。当時爆発的な人気漫画の映画化でありながら、明らかに原作の枠を外れて、監督の「想い」が感じ取れた。おなじみのキャラクター達ではない、「時間」や「夢」といった概念が主人公だった。 自分の中の映画のアンテナが、「ゴジラ」から「洋画」に切り替わろうとするタイミングだった。この時期にこの映画に出会っていなかったら、私はアニメという分野を切り捨てていたかもしれない。アニメーションの持つ可能性をまざまざと見せ付けられたことを覚えている。 「ハイジ」にも「ヤマト」にも「ルパン三世」にも多くを学んだが、セル画に書かれた連続的な「絵」が伝えてくるものに、哲学的な匂いを感じたのは初めてだった。何かを問いかけて来る映像、そんな作り手としてその監督の名を覚えた。押井守、私が初めてフルネームで憶えた日本の監督かもしれない。 ■ 20年ぶりに見ようと思った理由は二つ。たまたまDVDに目が行ったから、そして「イノセンス」を見たから。「イノセンス」は、3DCGと2Dアニメーションの極限的融合に挑戦した大作で、スタジオジブリがプロデュースし、カンヌ映画祭コンペ作品にもノミネートされた作品だ。筋は入り組み、引用も多く難解だが、少なくともオープニングは見ておかないと次世代アニメは語れないだろう。 押井作品にはインパクトの大きいものが多い。「機動警察パトレイバー the Movie」にも「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」にも見終わって暫くは心を奪われた。原作そのものの世界観がしっかりしているものが選ばれているが、更に押井監督の仕事観が、層を厚くするように上塗りされている。 原作者としては複雑な心境にもなるだろうが、主人公達の行動が「イイトコ取り」されなくて、後始末的な部分までも描かれる場合が多い。正義のために戦っても、何かしらの社会のルールを破れば主人公が自ら謝罪に行ったりする。正しいことを行なっていても何をしても良いわけではない、正義を通すのも大変なんだ、という視点を忘れることがない。 Webサイトのデザインをする際に、様々な障壁に出会うけれど、ユーザ中心の考え方を通したいあまりに、チーム内上下関係にヒビを入れたりしたことがある。そんな時、何となくそんなシーンを思い出す。理想論が青臭く見えてきて、ドロドロの仕事を全部背負ってこそ仕事やっていることになるんだよ、と語りかけてくる。耳には痛いが、忠告をためらわない大切な親友みたいな映像だ。 ■ 「イノセンス」と「うる星やつら2」の共通点は時間の表現の仕方。「あれ?、この場面さっき見たよ」という疑問符を抱かせながら、本当のストーリーの時間軸はどこだっけ、と観る者を惑わす。「当たり前」と思っていたことに、再考の道を、スッと渡し架けてくる。 「イノセンス」を観ながら、どこかで出会った手法だなぁと感じていた。そして、たまたま見つけたDVDで記憶が引き戻された。そして、改めて20年振りの映画を観て、この監督はずっとこういったことを頭の中で増殖させてきたんだ、と感動した。ワンパターンという批判も聞こえるが、コダワリの美学を感じる。 「石の上にも三年」どころではない。一つのことにしがみついて離れない。それは理解されない時期もあったろうし、評価されない時期もあったろう。他人の目は気にしないで、より良い表現の極みまで目指す。でも今、それらが結晶のように美しく独自の色を放っている。ジブリ程の知名度ではないけれど、別の観点で、今や「押井ワールド」はブランドと呼んで過言ではない。 ■ そんなことを考えながら、Ridualを想う。実はVer.2(R2)の試作が着々と進んでいる。次はサーバ型になる予定だ。解析系を先行させている。解析したいサイトのURLを入力すれば、解析が終了した時点でmailで知らせてくれる。更に他の人が解析した結果もWebブラウザで情報共有可能だ。まだまだ技術検証段階なので何も確約できないけれど、面白い方向に「深化」の予定だ。 競合分析には重宝するだろうし、納品検査時でも省力化に貢献するだろう。プロジェクトを蓄積していけるので、ポートフォリオDBになるし、ノウハウDBとして人材教育系にも影響を与えると読んでいる。 解析する内容は今よりも増え、視覚化する基盤技術もSVG以外のモノも考えている。何よりも大きな変更は、解析結果情報をDBに格納するということだ。様々な情報を組合わせて、様々な情報視覚化の表現方法が可能になる。 但し、サーバ化するということは、導入時の技術的難易度をあげることになる。今でもJ2SE(Java)を事前に入れて置く必要があり、それは一般のデザイナは戸惑う部分であるのを知っている。今度は、DBまで用意する必要がある。軽少短薄の流れには明らかに逆行している。 全ては、Ridualが最初に芽生えた時のアイデアから発する。「Webサイトを俯瞰(フカン)できるようにしたい」。そのことだけを言い続けて4年以上が経つ。こちらも年数だけは「石の上」を越えた。 ■ そして先日、漸くダウンロード数が1,000を越えた。日本には、Ridual的にWebサイトを見つめる人は1,000人しか居ないと想定していた。なので、数の上ではポテンシャル層には行き届いたことになる。しかし、事業計画書上の目標をクリアできない。7,500円ですら財布から引き出すのは難しいものなのだと実感している。 流れが来ていないとは思っていない。日々のダウンロード数はこの1年変わらないどころか微増状態だし、メジャーな更新を1年もしていないRidualサイトのアクセス数も波はあるが「閑古鳥」状態ではない。大手のWeb屋さんから興味も向けられているし、産学連携での開発も進行中だ。 Webが物珍しさの段階を超えて、量産体制の時代に入る事は予想できる事だった。その量産の基盤として、HTMLエディタでは心もとないのも自明の事だ。作る場面だけ効率化しても駄目で、検査系の効率も上がらないと、両足で立つ業界にはならないからだ。そしてその量産の中でも品質を高めていける基盤も育てなければならない。だからRidualのようなツールが必要だと、このプロジェクトが開始された。 現状のRidualのとっつき難さも、現仕様が2年も前のもので古すぎるのも、開発陣は承知している。だから「R2」で更に今のニーズに合うものを提供できるように頑張っている。 でも、Ridualが予算系の壁を越えるには、Ver.1の目標を達成する必要がある。NRIはボランティアではないので、継続投資には裏付けが必要だ。私の目を見てください、ではハンコは押されない。 Web開発の流れの本質が変わっていないと見ている私にとっては、4年前の当初のコンセプトを繰り返すことに何の抵抗もない。けれど、新鮮味のない論や数字の裏付けがない話に説得力を感じない層は多い。「石の上まで」をどこまで貫徹できるのか、そろそろ岐路に差し掛かっている。 R2の技術検証作業が進む中、多忙を理由に遠ざけていた足を使った営業活動をそろそろ再開しようと思っている。既存のHTMLエディタとは異なるコンセプトにも、未来を賭け得ると思われる方の投資を募りたい。 R2で実装して欲しい機能もヒアリングさせて頂きたい。Ridual開発陣の目がどこまで実態を見据えているのか。一歩一歩確かめつつ、次の段階を目指したい。 以上。/mitsui

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