コラム No. 84

嵩高紙(かさだかし) 「嵩高紙」という紙がある。最近のベストセラーの陰の立役者と呼ばれてる紙。書籍用紙として開発され、今では雑誌/ムック/カレンダーなど多岐に渡って活用されている。 従来の紙に比べて、軽くて持ち運び易く、その割りに厚みがあって「読後の達成感」を得やすい。しなやかでページをめくり易く、裏側のページが透け難い。更に、写真やイラストを綺麗に印刷できて、紙の変色やインキの色褪せが少ないので長期保存にも向いている。 特徴だけを書くと、理想的な紙で、下記のベストセラーに使われたと言われると、更に凄い紙だと思わされる: 世界の中心で、愛を叫ぶ / 316万部 冬のソナタ(上下) / 計122万部 蹴りたい背中 / 126万部 蛇にピアス / 53万部 生き方上手 / 123万部 世界がもし100人の村だったら / 116万部 (発行部数は少し古くて2004.7時点) この紙の開発元である日本製紙(株)の担当者の話を読んだ。製品化に向けて動き出したのは、96年頃。様々な試行錯誤を重ね、開発中は紙が切れてしまうケースが多発し、諦めかけたこともあったという。更に曰く、「もしそこで諦めてしまっていたら、今のベストセラー本はなかったかもしれません」。 ベストセラーが、作品だけの力で成立している訳ではない事実と、そのために成されている研究開発の重みに、少し驚かされた。失礼ながら、裏が映っている印刷には文句を言いはするが、紙の品質にそんなに期待もしていなかったというのが正直な感想だ。更に、それが96年から着手されていたとは。 ■ 本来、研究開発というのは、かなりタフな仕事だ。いつ日の目を見るかも分からない、けれど、今やっていることの先に光明が見えると信じる者だけが突き進める。信じてはいても自分の立ち位置を常に疑う。形の見えるノルマを達成していく仕事も辛いけれど、ノルマの形を成さないプレッシャーも相当きつい。 切れた紙の山を見つめて、担当者や上司は、何を考えたろう。更に進むべきか、退却すべきか。そもそも無理な行程だったのか、辿り着けるはずのない頂だったのか。研究と検証と反省の中で、重い空気を吸ってきたと想像する。 価値が分かってもらえない人から見ると、資金と時間をただ浪費しているようにも見える。研究室にこもるよりも、今ある製品/商品を一個でも売りに行けば良いと陰口もたたかれたかもしれない。「紙」の文化を知らないので想像だが、そんな夢追い仕事は止めて、売れ筋の紙の色バリエーションでも作った方が「会社のため」だとかも言われたろう。 それでも、退却の判断をしなかったから、今がある。そして、良い作品とタッグを組めて、更に大輪の華を咲かせた。担当者から見れば、この紙を使うために、作家が作品を仕上げたようにさえ思ったんではないだろうか。嬉しかったろう。 ■ 研究開発には、いつ芽を出すか分からないという壁もあるけれど、タイミングという壁もある。景気の良いときは、「余力」で多少成果が上がらない研究開発もやらせてもらえる。しかし、景気が悪くなると、真っ先に切られる仕事でもある。 会社自体がなくなってしまっては、研究開発もあったものではない。なので、会社の波に沿った形で研究開発が営まれるのは道理である。しかし、景気が悪くなった後に、好機の波が来るとしたら、研究開発はその時のバネになる。 研究開発に限らず、不況のときに人員削減や採用を減らすと、どん底から這い上がった時に、競合する体力がなくなってしまっていたりする。採用数の上下は社員人口比率のイビツな分布を生み、出世競争をよりイビツな形で助長させるのと同じだ。 ■ Webの世界でも同じことが起こる。仕事が沢山あるときには、研究開発や自社ノウハウの整理をやっている暇はない、でもそれが蓄積されていたならば、今をもっと軽々と越えて行けたかもしれない。そんな想いに駆られる人は少なくないはずだ。 かつて経験したことのある問題の解法、でもそれが再利用できるほど整理されていなくて、最初から考え直した経験は誰でもあるだろう。もっと再利用を考えてまとめておけば良かったと後悔しても始まらない。その苦しんだ時は誰にも負けない博識の自信があったが、時間と共に忘れてしまっている。 仕事に追われる時こそ、次の仕事のやり方を考える好機だと思ってきた。何をもっと効率的に成し得たら、次はもっと楽にこの山を越えれるのか。一番苦しい時だからこそ、そんなことを考えられる。 先日、苦しい仕事が明けた時、倒れる前に打ち合わせをしたいと申し出た。開発に関わった可能な限り多くの人を集めて、時間軸にそって何を成し、何ができなかったかを反芻する。そして、何がいつあったなら、異なる今日を迎えられたかを話しあった。愚痴や恨み節になる寸前で、文句大会は回避した。人を攻撃してもしょうがない。「誰」ではなく、「何」に絞って話し合った。 まだまだ仮説にしかならない。単なる思い付きの可能性だってある。けれど、幾つか今まで着手してこなかった「タスク」が見えてきた。次のプロジェクトで試せるチャンスがあったなら、やってみたいことがプロジェクトの財産として残った。やり残した悔いは無いとは言い切れないプロジェクトだったが、何かを得た感触が残った。 平時のありかたが、そのグループの道を決めていく。仕事をやりながら、次の仕事のための何かを築く。継続を考慮したなら避けられない「常識」がそこに見える。同時に、その当たり前のことをし続けるための強靭な意思の必要性も。 ■ 96年から、今後の紙業界や印刷業界/出版業界を睨み、ヴィジョンを定めて動き出す。迷っても壁に当たっても冷静な舵取りをする。しかも業界全体の生命線に関わる「紙」に関してだ。老舗業界だからこそ出来る業なのかもしれない。 紙業界にとっての「紙」に当たるもの。Web屋にとって何だろう。生命線ということから考えると、「アイデア」であり「人」なのだと思う。オリジナルという概念すら混沌とするコピーが氾濫するディジタルの世界には、伝達経路上に「紙」にあたるものは無い。でも、誰が開発に携わったのかがうっすらと推測できたり、コードの綺麗さから伝えられるものは存在する。やはり「人財」が鍵なのだと思わされる。 でも、生まれたてのWeb屋業界には、紙屋ほどに長期間じっくりと煮詰められた基盤(人財環境)整備はしていないのではないか。先日も知り合いのWeb屋チームから退職者が出た、最後の台詞は「これ以上ここに居ても学べるものがない」だったとか。痛切だ。 最近、Web業界に活気が少し戻ってきたように見える。知り合いの多くが忙しくて倒れるほどだ。ここ数年の冬の時代の過ごし方がボディブローのように効いて来る時期だとも言える。仕事が増えてきたということは、飛び出す(退職)する人達にもチャンスとなる。 「次に楽にならない」仕事のやり方を続ける組織に所属する意味が薄まる。飛び出しても仕事にありつけるのだから。短い現場人生なら、楽しく、やり甲斐のある仕事に就きたいのが人間だ。 倒れる程の忙しさの中でありながら充実感を感じることが出来る働き方。Web屋にもそんなマネージメントが必要な時代に入っている。同じ作品を読んでも、その「紙」によって受け取るものが変わるように、同じ仕事をやっても残るものが異なるような「やり方」。 古くて新しい問題、人財。他業界を羨ましく感じてばかりいても、進まない。 以上。/mitsui

コラム No. 83

VFX 映画が見たくてたまらなくなる時がある。仕事が大変な時に限って無性に疼きだす。本当のことを書くと長編の歴史的なものが好きなんだけれど、なんとか時間を作っても、見るのはSF系に偏っている。 いわゆる正統派映画は見るのに疲れるからだ。それなりに体調整えて、襟を正して映画館に向かわないといけない気すらする。歴史絵巻に入れ込むには、それなりに時間をかけた助走期間も必要だ。主人公がどういった状況でどういった心境に陥ったかをじっくりと納得して、人間模様を理解しつつ、自分の気持ちも熟成させた上で結末を迎えたい。醍醐味なんだが、疲れた頭には少し億劫。 しかし、SF系は少し手軽でのめりこみ易い。有り得ない状況がとっさに起こって、監督が描きたいシーンに一足飛びに突入できる。非現実的であろうと、世界観がそれなりの説得力を伴って描かれていれば、そういうモンなんだと、意識を一体化できる。 描かれた世界観を共有できた上で、主人公達の心の葛藤を楽しむ。映像自体を楽しむ事も多いけれど、作品としては主人公達の心の葛藤が深いほど記憶に残る。逆にショッキングな映像ばかりが続くとなんだか疲れてしまう。 ■ 最近はストーリー以外に、CGというかVFXの「使われ方」に興味を引かれている。SF系の映画に限ったものではなくなったので、どんな映画にも使われていると言っても良いかもしれない。 私は、「2001年宇宙の旅」と「スターウォーズ」と「未知との遭遇」をほぼ同時期に見た世代だが、きっとこれらの作品は、それまでの映画文化の集大成的な部分を持った作品群で、それ以降の映画は、ことCGやVFXに関しては異なる流れが生まれてくる時期だったような気がする。 それまでは、別カットで撮られた映像の合成編集的な意味が大きかったのが、完全にコンピュータで作られた映像(CG)が主役にのし上がっていく時代。そして、CGの質が映画の質と誤解されかねない時代を経て、今はやっと監督の一本の馴染んだ「筆」になってきた。 映画という一つの作品の中で、CGだけが変に浮き立つのではなく、全体の中の一部分として機能するような映像に仕上げる。CGらしさをなくしたCGの使い方と言っても良い。でしゃばらず、本当に効果的に配置される映像の一つの種類、という程度にまで、こなれて来た。 映画を見ていて、本当に上手くピンポイントで素敵な映像を使われると、心に焼きつく。名優達の名演技のように、忘れられないシーンとして残る。 ■ 映画がCGという新たな表現力を手に入れてそれを使いこなせるようになってきた時間軸を想いながら、Webの世界を考える。Webは個人や企業に与えられた表現力の一つだと思えるからだ。 Web以前には、個人は自分の想いを不特定多数に伝える術を持っていなかった。それが、自分の書評であれ、育児日記であれ、おでん食べ歩き紀行であれ、自由に情報発信でき、誰かのそれらを受け取ることができるようになった。 映画がCGに振り回されたように、個人もWeb(ネットといった方がよいかもしれないが)の力に翻弄される時期を経る。Webに浸る者、逃げ込む者、閉じ篭る者、依存する者。実世界とのバランスを欠いた色んな状態が見え隠れする。それはまるで、映画本編とCGの箇所がアンバランスな映画のような状態のようだ。 そして、事態はまだまだ悪化の一途を辿っているのかもしれない。序章に過ぎない気さえする。個々人の中で、「仮想」と呼ばれるWebの世界を過大評価する力は益々大きくなっているのかもしれない。 しかし、映画がそのアンバランスな状態から抜け出したように、Webを自分の生活の一部分として受け入れ活用できている世代も増えてきているようだ。キチンとバランスをとりながら、良い意味での情報の「良いとこ取り」して身軽に生きていける人達。 やっと、Webが特異なものから日常化したものへ変わろうとしているのも感じる。無い事が想像できない必需の世界に入ってきてもいる。暗い事件の影が余りに大きいので霞んでしまうが、大きな明るい可能性だって見えている。 先日も見知らぬ女の子を救おうと、Webが輪を広げた。悪意だけではない、善意もキチンと伝えていける時代になって来た。善意を形にする場にすらなって来た。もはや仮想という別世界があるわけじゃない、現実とリンクしている。 ・あみちゃんを救う会 http://ami.heart.mepage.jp/ ■ さて、企業はどうだろう。Webという表現力を手にして何が変わってきているのか。まだその力をソシャクできないでいるようにも見える。 自社製品や自社情報を直接手渡せるパイプを手に入れながら、形だけのWebに囚われすぎて居ないだろうか。もっとうまく使えば、もっと効果的なのに、もう一歩踏み出せずに立ち止まっているように見える企業がまだ目立つ。 映画がCGやVFXなしに効果的な興行を残せなくなったように、企業もWebなしには「形」すら成していないと見られる風潮を感じる。家に玄関があるように、企業にWebは付き物で、その出来次第で嬉しい風評が広がっていく時代。 部署間の風通しの良し悪しも、企業内コミュニケーションの深さも、Webは如実に表してくれる。エンドユーザのことよりも、自分達が作り易いことを優先する姿勢など、白日の下にさらしているようなものだ。 なのに、Web屋が集ると、本質的な苦労話より、その手の苦労話に花が咲く。エンドユーザの利便性を達成する苦労話よりも、関係者間の仲裁話が多くなる。CMの作られたブランド像よりも、もっと怖い悪評が流布する可能性すら見えているのに。 CGが見た目の主役から、優れた脇役になるまで十年ほどかかったろうか。Webはあと何年で真価を問い直されて活用されていくのだろうか。CGはその十年で革新的な技術進歩を成してきた。Web屋ももっと賢くならねばならないのだろう。それは従来のやり方をキチンと見直し効率的なことも考え始めることから始まるような気がする。 CGの名シーンが記憶に残るように、Webの画面で「旨いなぁ~」と唸らせる広告や製品紹介も可能だ。折りしも、四大広告メディアの一つ「ラジオ」での広告費が、ついにネットのそれに抜かされた。Webを使う側の知恵が益々必要とされる時代に入ってきた。 映画がCGの効果をキチンと考えて作られ始めたのと同じように、企業も必須のツールとしてWebのあり方を見直して、戦略的IT投資を始める時代。単なるお化粧直しの繰り返される場からの脱却。エンドユーザに惜しみなく提供することから、喝采(ブランド)を勝ち得る時代。それは企業もエンドユーザも嬉しい時代のはずだ。そんな時代まで、あと数歩。 以上。/mitsui

コラム No. 82

匠(たくみ) 新製品紹介セミナーに行くと、今まで複雑だったことがこんなに簡単になりますよ、と色々と聞かされる。幾つもの複雑に絡み合った手順を経ていたものが、クリック一つやドラッグ一回で済んでしまったりする。 HTMLエディタであれば、HTMLとバックエンド系の連携の話がここ数年スポットライトを浴びている。HTMLのレイアウトをしながら、そこに流し込まれるデータ(DB)を指定して、レイアウトしながら実環境に近いテストが行なえる。 多くの場合、デザイナを対象とした場でそうしたデモを見てきたが、正直言って反応はイマイチだった。理由は明確で、DB設計を同時にやるデザイナが育っていないことと、HTMLレイアウトしている最中に、DBが完成している経験など稀だからだ。 実用的でない奇術や手品を見ているような反応がデザイナの側から返される。熱い拍手があったとしても、そういった機能ができないよりはマシだね、という程度に感じた。更にいえば、そうしたツールがどんなに賢くなっても、HTMLコードを自分の目で確かめる工程はなくならない事を観客は忘れていなかった。 ■ デザイナにとって常識的に揃えておくべきツールは幾つかある。そのツール自体がデザイン工程に深く根ざしていたり、コミュニケーションをする上での常識になってしまっていたりする。 そして、業界内の多くの人が同じツールを使っているという現実は、面白い状況を生む。ツールが提供するデフォルトの機能をそのまま使うことを良しとしない雰囲気を時々感じることがある。 例えば、画像処理のフィルタはデフォルトでもそれなりの数はあるし、別ベンダーのプラグインもあるし、画像フィルターだけで一冊のガイド本になる程ある。しかし、プロを自認する者は、そのままを使わない。独自の組合せを考える。意地でも標準装備品は使わない。それがデザインの幅を広げ、技術を深める。備わっているものを活用しつつ、自作することが、自分の作品だという自負につながっている。 ■ しかし、最近、標準装備の「機能」を鵜呑みにする「層」が目に付き始めてきた。簡単にレイアウトが組めます、と聞くと、そのまま使おうとする。ドラッグ&ドロップで何かを作ることに慣れきった層だといっても良いかもしれない。勿論そのまま使って効果的なら使うべきだが、そうでないときも省力化を口実に多用する者もいる。 開発生産性という言葉に追われて、ワラをも掴む気持ちなのかもしれない。開発工期が短縮化される中で、定量的な判定が出来ない「品質」に拘るよりも、開発時間という絶対尺度だけで「評価」された方が高得点を取れると、踏んだのかもしれない。 しかし、世は「体験」の時代だと、まだ声がする。ユーザビリティの声も沈んでいない。使う場面と使う人達を、キチンと想定したものだけが優れたものだと認められる。それが理想論に近いとしても、身の回りに溢れる「便利そうに装飾された不便なモノ」に囲まれるとあながち否定も出来ない。 自分達は美術作品や工芸品を作っている訳ではない、と声もする。しかし、量産品ばかり作っている手で、いつか大きなモノが作れるのだろうか、とも疑問に思う。「良い仕事」は、「良い仕事」の先にあるものだと思う。手抜きした仕事の先にいつか「良い仕事」が降って来るとは思いたくもない。 そもそも、Webサイトのように誰にも公開されるものなら、誰に「評価」してもらうのだろう。上司だろうか、会社だろうか、それとも使用者だろうか。正しい評価という概念が空ろなまま、使ってもらってこそ道具、使ってもらってこその喜びが、開発生産性という数字を追う目線の中からこぼれ落ちていく。 ■ パソコンが流行り始めた頃、多くの人達が誤解をした。パソコンが自分達の生活を「楽」にしてくれると。簡単に何かをなさしてくれる魔法の箱。でも多くの場合、パソコンはそんな人達に苦痛を残した。そんなに簡単に「楽」は入手できなかった。 パソコンは、全領域での省力化をもたらすモノではなかった。手抜きが出来る環境となるべく生まれたモノではなかったのかもしれない。パソコンはアウトプットの品質を上げるための道具なのだ。手書きよりも綺麗に、記憶よりも正確に。 パソコンが簡単にしてくれた部分を上手く活用し、パソコンの不得意な部分を思いっきりアナログに努力する。そうした二人三脚が優れたIT仕事の原型だと思う。年賀状描きでもデータ処理でも、Webアプリ開発でも。 ■ インターネット時代の副作用の一つに、開発者と使用者の距離が近くなったことが上げられる。生産者と消費者との距離も縮まった。使い手の使う場面を想像でしか垣間見ることが出来なかった時代から、気軽に質問できる位置まで互いがネット越しの隣り合わせに居る。 Webサイトを作る上での武器は、「自分がいかに快適に感じるか」という自問をどれだけ深くし、形に出来るかという点に凝縮できる。作り手と使い手が接近しているからこそ成立する関係だ。 自分ならどう思うのか。ドラッグ&ドロップして作られた既製品で満足するのか。廉価製品を手にしたときに自分ならどう思うのか。勿論、常に最高級品である必要はない。ならば今は廉価版で許されるのか、そうでないのか。使い手と使われる場所をキチンと見極めているか、デザインできているか。 IT技術者さえも「消費」されているように見える昨今、本当の意味でのモノ作りの意地とかプライド等が必要な気がしてきた。いわゆる「匠(たくみ)」の域のIT技術者が見え始めてもおかしくない。 IT技術の中の「クラフトマンシップ」。その根付き方、根付かせ方が今後の歩みを決めていくのかもしれない。頑固な玄人肌の職人気質。そんな親父達が街に溢れていた時代が懐かしい。 以上。/mitsui

コラム No. 81

石の上にも 約20年ぶりにある映画を見た。「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」。最初に見たのは、アニメ好きな友人に半ば強引に誘われてのことだった。当時、私達は好きな漫画家を核としたグループに分かれて、意味もなく真剣な勢力争いを繰り返していた。私は手塚治虫派に属していたが、高橋留美子派の友人が、とにかく興味がなくとも見るべきだ、と言い張った。 不思議でショッキングな映画だった。マンガの原作がついてはいるが、事実上そこに意味はないといっても良い。当時爆発的な人気漫画の映画化でありながら、明らかに原作の枠を外れて、監督の「想い」が感じ取れた。おなじみのキャラクター達ではない、「時間」や「夢」といった概念が主人公だった。 自分の中の映画のアンテナが、「ゴジラ」から「洋画」に切り替わろうとするタイミングだった。この時期にこの映画に出会っていなかったら、私はアニメという分野を切り捨てていたかもしれない。アニメーションの持つ可能性をまざまざと見せ付けられたことを覚えている。 「ハイジ」にも「ヤマト」にも「ルパン三世」にも多くを学んだが、セル画に書かれた連続的な「絵」が伝えてくるものに、哲学的な匂いを感じたのは初めてだった。何かを問いかけて来る映像、そんな作り手としてその監督の名を覚えた。押井守、私が初めてフルネームで憶えた日本の監督かもしれない。 ■ 20年ぶりに見ようと思った理由は二つ。たまたまDVDに目が行ったから、そして「イノセンス」を見たから。「イノセンス」は、3DCGと2Dアニメーションの極限的融合に挑戦した大作で、スタジオジブリがプロデュースし、カンヌ映画祭コンペ作品にもノミネートされた作品だ。筋は入り組み、引用も多く難解だが、少なくともオープニングは見ておかないと次世代アニメは語れないだろう。 押井作品にはインパクトの大きいものが多い。「機動警察パトレイバー the Movie」にも「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」にも見終わって暫くは心を奪われた。原作そのものの世界観がしっかりしているものが選ばれているが、更に押井監督の仕事観が、層を厚くするように上塗りされている。 原作者としては複雑な心境にもなるだろうが、主人公達の行動が「イイトコ取り」されなくて、後始末的な部分までも描かれる場合が多い。正義のために戦っても、何かしらの社会のルールを破れば主人公が自ら謝罪に行ったりする。正しいことを行なっていても何をしても良いわけではない、正義を通すのも大変なんだ、という視点を忘れることがない。 Webサイトのデザインをする際に、様々な障壁に出会うけれど、ユーザ中心の考え方を通したいあまりに、チーム内上下関係にヒビを入れたりしたことがある。そんな時、何となくそんなシーンを思い出す。理想論が青臭く見えてきて、ドロドロの仕事を全部背負ってこそ仕事やっていることになるんだよ、と語りかけてくる。耳には痛いが、忠告をためらわない大切な親友みたいな映像だ。 ■ 「イノセンス」と「うる星やつら2」の共通点は時間の表現の仕方。「あれ?、この場面さっき見たよ」という疑問符を抱かせながら、本当のストーリーの時間軸はどこだっけ、と観る者を惑わす。「当たり前」と思っていたことに、再考の道を、スッと渡し架けてくる。 「イノセンス」を観ながら、どこかで出会った手法だなぁと感じていた。そして、たまたま見つけたDVDで記憶が引き戻された。そして、改めて20年振りの映画を観て、この監督はずっとこういったことを頭の中で増殖させてきたんだ、と感動した。ワンパターンという批判も聞こえるが、コダワリの美学を感じる。 「石の上にも三年」どころではない。一つのことにしがみついて離れない。それは理解されない時期もあったろうし、評価されない時期もあったろう。他人の目は気にしないで、より良い表現の極みまで目指す。でも今、それらが結晶のように美しく独自の色を放っている。ジブリ程の知名度ではないけれど、別の観点で、今や「押井ワールド」はブランドと呼んで過言ではない。 ■ そんなことを考えながら、Ridualを想う。実はVer.2(R2)の試作が着々と進んでいる。次はサーバ型になる予定だ。解析系を先行させている。解析したいサイトのURLを入力すれば、解析が終了した時点でmailで知らせてくれる。更に他の人が解析した結果もWebブラウザで情報共有可能だ。まだまだ技術検証段階なので何も確約できないけれど、面白い方向に「深化」の予定だ。 競合分析には重宝するだろうし、納品検査時でも省力化に貢献するだろう。プロジェクトを蓄積していけるので、ポートフォリオDBになるし、ノウハウDBとして人材教育系にも影響を与えると読んでいる。 解析する内容は今よりも増え、視覚化する基盤技術もSVG以外のモノも考えている。何よりも大きな変更は、解析結果情報をDBに格納するということだ。様々な情報を組合わせて、様々な情報視覚化の表現方法が可能になる。 但し、サーバ化するということは、導入時の技術的難易度をあげることになる。今でもJ2SE(Java)を事前に入れて置く必要があり、それは一般のデザイナは戸惑う部分であるのを知っている。今度は、DBまで用意する必要がある。軽少短薄の流れには明らかに逆行している。 全ては、Ridualが最初に芽生えた時のアイデアから発する。「Webサイトを俯瞰(フカン)できるようにしたい」。そのことだけを言い続けて4年以上が経つ。こちらも年数だけは「石の上」を越えた。 ■ そして先日、漸くダウンロード数が1,000を越えた。日本には、Ridual的にWebサイトを見つめる人は1,000人しか居ないと想定していた。なので、数の上ではポテンシャル層には行き届いたことになる。しかし、事業計画書上の目標をクリアできない。7,500円ですら財布から引き出すのは難しいものなのだと実感している。 流れが来ていないとは思っていない。日々のダウンロード数はこの1年変わらないどころか微増状態だし、メジャーな更新を1年もしていないRidualサイトのアクセス数も波はあるが「閑古鳥」状態ではない。大手のWeb屋さんから興味も向けられているし、産学連携での開発も進行中だ。 Webが物珍しさの段階を超えて、量産体制の時代に入る事は予想できる事だった。その量産の基盤として、HTMLエディタでは心もとないのも自明の事だ。作る場面だけ効率化しても駄目で、検査系の効率も上がらないと、両足で立つ業界にはならないからだ。そしてその量産の中でも品質を高めていける基盤も育てなければならない。だからRidualのようなツールが必要だと、このプロジェクトが開始された。 現状のRidualのとっつき難さも、現仕様が2年も前のもので古すぎるのも、開発陣は承知している。だから「R2」で更に今のニーズに合うものを提供できるように頑張っている。 でも、Ridualが予算系の壁を越えるには、Ver.1の目標を達成する必要がある。NRIはボランティアではないので、継続投資には裏付けが必要だ。私の目を見てください、ではハンコは押されない。 Web開発の流れの本質が変わっていないと見ている私にとっては、4年前の当初のコンセプトを繰り返すことに何の抵抗もない。けれど、新鮮味のない論や数字の裏付けがない話に説得力を感じない層は多い。「石の上まで」をどこまで貫徹できるのか、そろそろ岐路に差し掛かっている。 R2の技術検証作業が進む中、多忙を理由に遠ざけていた足を使った営業活動をそろそろ再開しようと思っている。既存のHTMLエディタとは異なるコンセプトにも、未来を賭け得ると思われる方の投資を募りたい。 R2で実装して欲しい機能もヒアリングさせて頂きたい。Ridual開発陣の目がどこまで実態を見据えているのか。一歩一歩確かめつつ、次の段階を目指したい。 以上。/mitsui

コラム No. 80

人のよいデザイナ 何でも引き受けてしまう人がいる。コマゴマとしたことから、戦略に関わるアイデア出しまで、相談を受けた途端に動き出す。ラフスケッチからグラフィックパーツまで作成し、Flashで試作を作って、カチッとしたドキュメントも書き上げる。 勿論本人の多才さがあるが故なんだが、それでも努力をしないで事を成している訳でないようだ。「どうして引き受けてしまったかなぁ~」のボヤキの一つや二つは微かに聞こえて来るし、目の下のクマが痛々しかったりする。 そうした才能溢れる人と仕事をすると、アイデア出しとか仕事の根源的な部分に触れる作業では大助かりだ。でも、ふと背筋に走る悪寒がある、「この人がいなくなったら大変だ」。 こうした多才な方々に共通している点の一つは、「器用貧乏」。もてる多才さをお金に換える術に長けていない。仕事を頼む側としても、何を聞いても的確な答えが即答されるので、予算をとって云々という経理処理を怠ってしまう。結果として、その人は、その提供したモノに対する対価として正当な金額を受け取っていないような気がする。 ■ 何もかもをお金に換算することは、せちがらい。が、「正当な対価」ということは誰もが考えなくてはならない話だろう。Webの中核にいる人は基本的には、お節介で世話焼きな面を持っている人が多い。だから頼られることは、そのままモティベーションになるし、喜びだ。お金に替えられないのも真実だ。 でも、その仕事を継続することを視野に入れた時、即座の親切が仇になることがある。仕事をお願いする側が気をつければ良い話かもしれないが、その人への依存症が発生する。自分で考えるよりも、頼った方が正解を手に入れられるならば、安易に流れ易い。 依存症の本人の更なる甘えに聞こえるかもしれないが、本人だけで直すことが困難なことが存在する。現在子育てをしながら感じていることでもあるが、甘やかされた子供にシャンとしないさいと言うだけでは物事の改善は難しい。甘えて来れない状況を作るのも必要だ。そしてそれは、そういった状況に気が付いた人の責任なのかもしれない。 親としての喜びは、子供が頼ってくれる部分にもあるけれど、子供が自立してくれる方が、長い目で見れば大きいと思う。どんなコラボレーションの関係であっても、長い目で見れば、互いに自立的であることが望まれるのではないか。正等対価の伴わないイビツな関係は、遅かれ早かれ問題を生じる。 ■ 例えば、仕事関係においては、予算の関係がある。親切に何を訊いても答えをくれるサービス精神は嬉しいのだが、実は予算関係の書類に名が残らないという状況を生む。予算は、タスク進捗管理等とは別の次元の管理体制で動いている。だから、予算会議に記録が残らないような仕事の仕方は、連綿と続ける気のある仕事には不利になる。 何か困ったことがあるときに、気安く質問が出来る関係。それは特に大きな会社にいる人にとって大切な「資産」である。特にRich Internet Application(RIA)系の技術では、ベンダーからの公式情報が余りに少なく、市井のボランティアBlog等の日々の精読が必須だが、それは大手SIerの人間にとって現実的な日常業務ではない。上司への報告の仕方に困るからだ。それらのサマリーを的確にアドバイスしてくれる人がいるなら、検索エンジンよりも遥かに有益である。 しかし、それに予算的な裏付けをしていない場合、大きな作業はお願いできない。その一線を越えると「奢り」の領域に入ってしまう。電話で一言で聞けるような質問ならまだしも、作りこまないとならない事柄を、ボランティアでお願いするような破廉恥な客に成り下がる。そして、そうなったら、その関係は終りだ。 一度壊れた人間関係は修復するのは大変だ。おまけに、それまでの情報パイプが断たれることは業務的な支障も生みかねない。「次何かで埋め合わせするからさぁ」等というTVドラマで聞き慣れた実行する気のない台詞は信用されない。埋め合わせの意味するものは「予算」であり、今確保できない予算を将来約束できないご時世であることは皆が知っているのだ。 ■ 頼む側の問題だけではない。予算を付けずに引き受ける仕事が増えると、必然的に自分の勉強の時間が減る。1日に24時間しかないというのが、世界中の人に与えられた唯一の平等な部分だ。そんな自己研磨していない人が頼りにできる時間は、残酷だがそう長くはない。 人は良いけれど、技術的に最先端に位置していない人は哀しい。例えば、弊社がFlashアプリケーション開発を行なう場合、どんなに見事なアニメーションが描けても協労は難しいと思う。ActionScript2で細かなデータ型定義をきっちり記述し、MVCモデルに沿ったソースコード管理が前提になる。 FlashやActionScriptについてのみの知識以外のものが要求される。Java系との連携も必要だし、データベースやXMLの話も通じないと困る。Flashという専門領域以外に共有しておきたい「基礎」がある。その基礎を共有した上で、お互いの専門領域で知恵を出し合い顧客満足度を高めたい。 それは我々が担当する仕事で、将来に渡ったシステム保証を担う部分が大きいからだ。リリースすること自体よりも、リリースした後の「責任」に重きを置いている様にさえ見える。ある程度の規模の人間が並行的にメンテナンスできるほどに、こなれていないと手は出さない。慎重すぎるとの声もなくはないが、それ故に築き上げられた信頼も大きい。そういった部分がコアビジネスになっている会社は案外多いだろう。 メンテナンスが出来ることは、一発芸では成り立たない継続性を要求する。そのためには、開発者が疲弊していては困る。しかし、慈善団体ではないので、裏打ちのない予算の確保はできない。だから正等対価として予算を確保できる理由や体制が必要だ。 ■ こうした議論の難しい点は、開発者が大らかなサービス精神を捨て、どんな質問にも「その件については検討後に改めてご返答させて頂きます」とか言い出すことだ。それは前述のとは別の「壁」を作ってしまうことになりかねない。 風通しの悪い路地裏に迷い込んだ気分がする。そして、そうした関係から新しい何かが生まれるとは感じられない。そもそもが忙しい人達が後で答えるとなると、かなりズレた時期に答えが返って来ることが多い。阿吽の呼吸どころではない。息が合わない人とは一緒に走れない。一緒に走る気力が萎える。 ■ 人材を「人財」と称して、重要性を強調する風潮は高まっている。しかし、IT業界のように技術革新の早いところで、その「価値」を「(人事)評価」にまで押し上げて考える方法論はまだ確立していない。ここ数年で見直された価値を見抜き数値の形に変換できる人事評価者も育っていない。 未だに、基本的には「人月計算(月単価幾らで開発者を丸ごと抱える方法)」で開発は見積もられているし、開発ツールの性能が上がり、オープンソースも認められるところまで来ている。それは、ますます予算が圧縮される傾向を強めていると言える。時間給だけでは成立しないギリギリの崖っぷちまで来ているとさえ見える。 人月計算以上の「付加価値」を何かで訴えるしかない状況が迫っている。それは、人のよいデザイナの長所短所も含め、新しい価値観に立ち往生している人達の長所短所も含めて、何か新しい世界を築き上げる時期にさしかかりつつあることを暗示しているように見える。 何か一部分ずつ改良していく時間の猶予もないのかもしれない。一度にまとめての変革。人のいい職人さんが、人のいいまま仕事を続けていけるのがハッピーなことには間違いないのだから。 以上。/mitsui