コラム No. 97

心尽くし 大切な友人が訪ねて来た。会うのは多くても一年に一度。メールもそう頻繁にやりとりしない。でも、互いに大切だと思っているは通じ合っている。 到着の30分も前から、心も少しそわそわする。何かテーマを設けて議論したい訳でもない。ただ、同じ空間にいて、思い出話や普通の会話を交わすことが楽しい。出会った頃の20年も前のことをつい昨日のことのように会う度に話す。 出すお茶にも気を遣う。食事も選ぶ。そんな大ご馳走は用意できないが、通常の予算より少し贅沢に食材を選ぶ。惜しみなく、とまでは行かないが、ケチろうなんて思いもしない。グラスもお皿も、持っている中で一番良いものを選ぶ。楽しんでもらいたい、楽しみたい、それを形にする。 ■ 何かを大切にしていることを「示す」ことは難しい。単にお金をかければ良いというものではない。でも、全くお金をかけないで示すことも、やはり難しい。「お金のかけよう」は、十分条件にはならなくても、ある程度は必要条件と言えるだろう(もちろん、持てる範囲で)。 例えば、「人材」が大切だと公言している会社の真剣度は、人材育成や福利厚生に割く予算の額が示してくれる。人材が大切だと言う上司の本音は、どれ程部下と時間(コスト)を共有しているかに現れる。注ぎ込める上限はあるにせよ、常識的な下限も存在する。部下との対話が月平均三分です、では人材最重要説を唱える資格があるかは疑わしい。 さて、Webである。伝え聞く話の殆どで、構築予算が削られている。しかし、機能は削られていない。より高度に、より複雑に絡み合っているシステム構築への対価が下落している。Webサイトをより有効に活用しようという動きが一方でありながら、下がっている。 こんな話を聞いた。この業界の著名人にコンサルティングの依頼が来る。氏は本を何冊も出しているし、大型イベントでも壇上に立つランクである。何を求められているかが多少不明確なままではあるが、「五万円」を提示した。有料質問権五回分くらいだろうか。 氏を知っている人なら、五回の質問に対して、コードサンプル付きの詳細な答えが返ってくることは容易に想像できる。つまり、破格の価格である。しかし先方は、サイト全体構築費に匹敵するので辞退する、と答えてきたそうだ。 ちなみに、東京都の最低賃金(2004.10改定)で換算して見よう。最低賃金は、710円であり、産業別最低賃金の中で一番近そうな「出版業」は、785円。後者で計算すると、64時間弱。一日8時間としたら、8日弱。約1.5週の時間拘束。 改めて強調することもない事だが、これは高度に専門知識を蓄積した人への対価ではない。あくまで「最低賃金」であり、「最低賃金額に満たない場合は、最低賃金法違反として処罰されることがあ」ると定められているものである。 参考) http://www.roudoukyoku.go.jp/wnew/t-toukyo.htm 推測されるその会社のWebサイト構築費は、せいぜい10万というところか。今やパソコン一台分である。検索して見ると、立看板一枚の制作費程度ということも分かる。詳細情報もリニューアルの頻度も不明なので、一概に責め立てることはできないが、こうした会社が一体それだけの予算で、誰に何の情報を発信し、どんな関係性を結ぼうとしているのだかを疑問視してしまう。 しかも、この会社が突飛な例なのではない。「6,000円で精密なFlashアニメーション」とか、「ページ単価500円で、メンテが楽で先進的な1,000ページサイトを」とか、耳も目も疑うような案件に最近よく出会う。 ■ 少し前、某世界最大規模のスポ-ツシュ-ズ販売会社が、その生産の大部分を、低賃金で劣悪な労働条件の国で行っていたことが話題になった。最もクリーンな夢を売っていると言えるイメージ戦略の裏側で、犠牲になっている労働者の姿がクローズアップされた。 企業が利潤を追求するのを第一とする限り、生産コストを下げることは大きな目標であり続けるだろう。しかし、世界トップクラスに登って尚、社会的労働条件ルールを無視して、その生産ラインを劣悪なまま使い続けることには、多くの人が眉をひそめた。ブランドの危機とも言える状況だった。 劣悪な環境下の労働者の血と涙が染み込んだスポーツシューズに魅力などあろうはずが無い。けれど今、Web開発現場で行われていることは、これに近づいている。如何に開発費を抑えるかが、その担当者の手腕と評されているかのようだ。Webへの熱意ではない、ユーザへの想いでもない、ただ「コスト」。 片や、Webサイトの価値は相対的に上がっていると言える。既存メディアの価値が下がっていることは、テレビCMの扱われ方や、ラジオ広告費がネット広告費に抜かされたことから明らかだ。更に直接資産価値を算定する動きもあり、その数字の大きさに目を見張る。 参考) 企業の広告・宣伝手法は、マスメディアから個別対応のITメディアへ http://www.nri.co.jp/news/2005/050531.html ネット広告費がラジオを上回る――電通 http://www.itmedia.co.jp/survey/articles/0502/18/news063.html 国内Webサイトの価値総額は7兆7000億円相当 http://www.itmedia.co.jp/survey/articles/0409/21/news032.html なのに、開発者の価値は上がっていない。生活が楽になっているように見えないし、将来の不安をむしろ感じる。 参考) Web Designing 2004年10月号:Webデザイナー白書 2004 web creators 2005年 2月号:WEBデザイン経済白書2005 ■ 企業のIR情報の中で、研究開発費の項目は比較的大きく取り上げられている。それは、「今」ではなく、「将来」を左右するデータだからである。研究開発という投資を怠る企業は中長期的には生き残れないと考えられる。 エンドユーザとの対話に関しても、同じことが言えるのかもしれない。どれだけ、エンドユーザとコミュニケーションを取っているか。これは企業の中長期的存続に大きく関わっている。ユーザの支持を得ないモノは、廃れていく。 では、その対話を現実的に担っているのは、何だろう。双方向という点を考えれば、「ネット」しかない。そしてそれは、Webサイトだけではないだろうが、現時点ではWebサイトが占める割合はかなり大きいだろう。 近い将来、投資家向情報として、「ユーザ対話費」などという項目が明示される日が来るかもしれない。その時、そこに余りに小さな金額を書く大企業は、どんな想いがするのだろう。投資家もどんな目でその数字を見るのだろう。 「お客様が第一です」と言いつつ、その窓口構築にはお金をかけない。それがどれ程、恥ずかしいことなのか。クリーンなイメージのWebサイトの構築のために、当人の技術不足ではなく不当な時間拘束のために睡眠不足で倒れかけているWeb屋がいる現実をどう考えているのか。 大切な友人の訪問を、不当に安い駄菓子で迎えることは、私にはできない。玄関もそこそこには掃除する。取り繕う訳ではない、迎えるにあたっての、心尽くしのマナーだ。企業にとって、ユーザは「大切な友人」以下ではあり得ないだろう。コストという数字だけが一人歩きして、大切な何かを置き忘れてる。 ■ 今や大企業の中では、サービス残業問題が大きくなりつつある。ただ長時間働かせるだけでは、モティベーションも低下するし、労働基準局からも睨まれる。そして最終的に企業ブランドに響くからである。 そうした事柄から予測すると、対価に比して過大な時間拘束を強いる業務や、金曜深夜に月曜早朝納品を求める大量の要求などが、発注している会社のブランドに関わる問題になるのも、時間の問題だろう。現に中小企業に対する発注方式に関しては見直しが始まっている。 参考)下請法 http://www.jftc.go.jp/sitauke/ ユーザを大切に想うのなら、それなりの対応方法がある。そして、その対応方法の構築にも、それなりの方法がある。アウトソースして、それを搾取するようなやり方は、破廉恥な方法と思うべき時代に入ってきている。破廉恥な仕事では、ユーザに対しても失礼で、信頼を裏切ることになる。 企業が、マスメディアを通さずに直接ユーザと対話することは、歴史が浅い。まだ不測の事柄にも多く直面する。でも、大切に想う友人への「もてなし」から学ぶことは多いはずだ。 そして、本当は、発注する側にも、受注する側にも、まだまだ工夫が必要な産業なのだと思う。単に発注費を上げれば良い訳ではない。ボられたお菓子で迎えるのも難がある。常識的な範囲で賢明な「もてなし」が喜ばれる。Webという、コミュニケーション技術は、もっともっと大切に育てていくべき分野だ。 友人が引っ越し祝いにワインを贈ってくれた。何十万もする訳ではないが、私の通常買うモノの十倍する。ありがたい。小心者の私は未だに栓を抜けられないでいる。でも、そんな金額ではなく、大切に思っていてくれる事が伝わってきて嬉しい。いつか、彼と、我が家でグラスを交わしたい。 以上。/mitsui

コラム No. 96

デザインと戦略 「デザイン」に何ができるのかを考える際に、忘れられない言葉がある。日経BP Strategic Web Design Vol.1で、NTTデータ広報部の井上博之氏が2001年3月の自社サイトリニューアル時のインターヴューで答えた言葉: 「コンシューマをターゲットにしない同社のような企業が、ビジュアルデザインにこだわったのは何故か。『新卒者のリクルーティングや個人株主への関心の訴求など、一般の人々に対する関わりも決して避けて通れない』(井上氏)なかで『デザインを核としたウェブ戦略により、企業の知名度とイメージの向上につなげようと考えた』からだ」 「将来像について、井上氏は『機能面を追い続けて陳腐化しやすいサイトよりも、デザインで最先端を行くサイトを作り続けたい』と語る。そこには、『ウェブサイトのデザインやイメージを、テレビコマーシャルやポスターなど他のメディアにも展開していく』という次のステージの構想も見えていた。」 当時、企業サイトの目的は、まだまだ企業側からの情報発信の窓口や、Webサイトを持っていなければ恥ずかしいから、という積極的ではないものが大部分だったと記憶している。しかし、この広報担当者は、もっと違う次元で目的を持ち、そのために「デザイン」を用いた。 このサイトの特徴は、その当時にFlashにできることを集約したようなサイトだった。未来的な画像が軽快に動き、画面上にマウスを動かすだけで、少し未来に行ったような気にさせる作り。最新情報などのテキスト情報は、少なくともXMLで管理していて、メンテナンスも容易なのが一目で想像できた。 このインタヴューで語られている言葉の私にとっての要点は、二つ。先ずは、情報を作り手側からの視点ではなく、受け手がどのように受け取るかを主体に考えること。そして、エンジニアリング(プログラミング)とデザインという二つの武器を表裏一体のように活用すること。 ■ 企業の「現状」の情報提示を、人はどう受け取り、記憶するのか。テキスト情報としては同じでも、「演出」一つで重みは変化する。他より重く印象付けられた情報は、その受け手の行動に影響を及ぼすだろう。そこが計算されている。 このリニューアルの「効果」を「数字」で示すことは、私にはできないが、予想として言えることは、一番敏感に反応したのは学生だろう。将来に夢を描く学生の心を捉え、「訪れるべき企業サイト」として上位に位置付けられていたことは想像に難くない。 企業の「現状」の情報提示をする方法に一工夫することで、「将来」を担う人材を集められたとしたら、このサイトの開発費はその「投資」としては非常に効率的なものと言えるだろう。このサイトはその後最低でも二回リニューアルをしている(二年毎のサイクルか?)が、毎回心憎い演出と情報鮮度や演出鮮度の保ち方が見事だ。 表裏一体の方も、唸らされた。「陳腐化」という言葉が、Webサイトが時間とも戦っていることを如実に示している。Webサイトはオープンと同時に、様々な波に飲まれていく。単純な時間経過、見慣れていくことによる情報劣化、見慣れていくことによる学習効果、時代のトレンドとのズレ、類似デザインサイトの出現。 一度良いものをオープンすれば済んでしまうのではない。サイトのオープンは次のリニューアルの入り口でしかない。そうしたことの対策を考慮しつつ、最先端を進んでいくのだという覚悟が言葉に表れている。 ■ そうした継続される「戦い」を、デザインを用いて挑戦していると感じさせるキャンペーンがある。日産の「SHIFT_interior」。 元々、日産はデザインを統括する常務を擁し、デザインとブランドの関係について、多くのメッセージを発信しているデザイン先進企業でもある。 「インテリア」をキーワードに展開されているこのキャンペーンは、その名の通り、車のエンジンに手をかけていない。既存のラインナップに、特注の内装を施して、車好きの層の心を掴もうとしている。高品質な内装を見ているだけで、そろそろ次の車検を意識している私の心は揺れてきている。 エンジン設計部隊を温存し、デザイン設計部隊を活用し、そして工場生産部隊をフル活用。デザインをエンジニアリングの化粧直しのように考えている人達からは、決して生まれない発想だと思う。 デザインとエンジニアリングを、表裏一体、あるいは正に車の両輪のように活用することで、ブランドを高め、常に市場にアピールし続ける体制が存在する。 前出の井上氏の台詞を少し変えてみよう。「機能面を追い続けて陳腐化しやすい『車』よりも、デザインで最先端を行く『車』を作り続けたい」。日産の経営陣がこのように考えているかどうかは分からないが、そうであっても不思議ではない(もっと深いのでしょうが)。 ■ デザインが貢献できること。Webサイトで言えば、「使い易さ」。これが徐々に大きな付加価値と認識されつつある。まだまだ大勢は、お化粧直しや見栄えのアクセント位にしか思っていない。でも冷静に見渡せば、戦略的なWebサイトはやっぱり増えている。 システムにデザインを活用しないことは、野球を投手力だけで勝とうとするのに似ている。相手打者を封じ込めれば、負けはしない。しかし、それだけの投手を維持するのは非常に大変なことだ。投・打・守の3つが有効に絡み合ってこそ、チームとして安定した強さを持てる。 デザインが経営戦略と結びついた結果、大きな価値や力が生み出される例が増えてきた。理系と文系という二元論が崩れていったように、デザイナとエンジニアという二元論が崩れる日も近いのかもしれない。 デザインの価値が徐々に浸透し始める時代、無意味なイサカイの横を、デザイナもエンジニアもマネージャもツールの分野でも、一部の先駆者が「お先に」と先に進んでいる。そう、未来を見据えて、正に戦略的に。 以上。/mitsui

コラム No. 95

熱意 中二の息子と格闘している。問題は成績ではない。熱意。何だか、何をやっても、頑張っているという状態に見えない。見ていてイライラする。余り話す時間が取れないのだが、機会があれば活かすようにしている。でもイライラする。 私はフリーターの時代があったので、幼稚園の送り迎えを担当もして、それなりに息子とは距離が近いつもりで居る。今も、一緒に居る時間こそ短いけれど、それなり以上に関係作りには頑張ってる。でも、ここに来て壁に当たった。 何かの作り方、何かの描き方、何かについての知識、それらは何とか教えることができる。正確に書くと、一緒に調べ学ぶことができる(小学校高学年になると、もはや覚えていないことが多い)。でも、教えられないことがある。熱意。「頑張る」ことを教えられない。 何であっても、「そこそこ」で良いと思っている。汗だくになることを恥じているかのような素振りを見せる。すかした態度が格好良いと思っているフシもある。身長で直ぐそこまで迫っている息子が、そんな態度で居ることがイライラの種である。 数年前、頑張ることについて話し合ったことがある。なぜ頑張らないのかという問いに、「頑張って駄目だったら、損じゃないか」が答え。頑張る前から結果を考えている姿が、私よりもオジン臭く見えて、説教してしまった。勿論、ノレンに腕押し、焼け石に水だった。話して通じるならとっくに解決している。 ■ 「日経エレクトロニクス 2005.04.11号」に興味深い記事が載っている。「技術者よ大志を抱け 第2部 組織・制度は脇役に徹す 成果主義の見直し始まる」。記事は先立って行われたアンケートをベースにしている。画期的な技術や製品を開発するのに必要な事柄を問うもので、ハードウェア系開発者約二千人が有効回答を寄せている。 http://techon.nikkeibp.co.jp/article/HONSHI_LEAF/20050406/103453/ (日経BP社「Tech-On!」) 「画期的な開発を進める意欲を高める上で一番大きな要素は何か」。「やりがい・達成感=76%」、「特許報酬や成果報酬など金銭的な見返り=13%」、「役職・出世=2%」。 「組織が画期的な開発を成功させるために必要と思われる要素(与えられた言葉に対する重要度を5点満点で答える)」。「技術者の熱意=4.7」、「明確な目標設定やビジョン=4.4」、「強力なリーダーシップ=4.2」、「優秀な技術者=4.0」、「的確な市場予測や技術予測=3.8」、「十分な開発期間=3.5」。 社員のやる気を引き出すための制度や組織が、逆に足を引っ張っている現状と、とは言っても何らかの明文化をせざるを得ない会社としての立場のジレンマが、各社の試行錯誤の取材とあいまって、様々な示唆を与えてくれる。 そして、間違いなく主張されているのは、「熱意を育てるのは難しい」という点だろう。様々な趣向を凝らした制度を見ながら、どんな大企業でさえ苦労していることに、申し訳ないがホッとしてしまう。我が家と同じだ、と。 同時に、「制度に適合できるのが良い社員」だった時代が過去になり、「人に合わせられる柔軟なものが良い制度」の時代に入っているのを感じる。本来の主客の順序になって来つつある。Webがユーザ中心に設計すべきだという流れと、時を同じくして移っていっているのが興味深い。 そして、どんなに巧妙なルールであろうと、廻り中を熱くさせる人間には敵わないと思ってしまう。たった一言で、その場を沸かしたり、和ませたり、熱く団結させたりしてしまう。改めて、人間という存在の大きさを実感する。 ■ 人を熱くさせるもの、それは何だろう。やはり、その対象がどれほど好きか、にかかっているのだと思う。イヤイヤやっていても、ホドホドにやっていても、熱は伝わるほどにはならないだろう。 息子に熱を感じないのは、彼がまだ夢中になれるものに出会っていないからだ。少し可哀想に思う。親として、もっと上手く演出して上げれれば良かったと後悔もする。早く出会えることを願っている。 なりふり構わず、夢中になれるものに夢中になること。暑苦しいと邪険にされながらも、心が片時も離れられない事柄に出会うこと。それが仕事ならば、ある意味で、これ以上幸せなことはないのかもしれない。 今、Ridualチームは、そういう意味で至福のときにある。Ver.2が着々と姿を見せつつある。未だに、遠隔地開発(横浜と四国)をしているので、各人がどんな表情で新しいインターフェースを見つめているのかは分からないが、見飽きることがない。 私はうっとりと真夜中に一人で見つめ、いじっては悦に入っている。隣のメンバーは昼間に真顔で「いいなぁ、これ」と呟いている。皆んな、そろいも揃って、Ridual馬鹿である。自分達で設計し、自分達で作って、先ず自分達が惚れ込んで、自分達で粗探しして、シェイプアップしていく。 まだ事業計画もできていないし、Ver.1の投資も回収できていない。客観的に見れば不安定この上ないけれど、期待で胸が躍っている。Webに関わり続けて良かった。 ■ マザーテレサは、「愛の反対は、無関心です」と言った。憎むとか積極的な行為が、愛の対極にあるのではない。存在を知りつつ無視する、それが「愛が無い」状態なのだと言う。 ユーザが居ることを知りつつ無視することも、もっとより良いナビゲーションがありそうなのに考えないことも。どれも、愛とは反対の方向を向いたものなのだろう。 Ridual購入者からのリクエストや質問に対応するように、Webサイトを少々変更した。改めて、初めての方への配慮の足りなさを認識する。愛が足りなかったことを認識する。修正した途端にアクセス数が増える。皆んな、迷ってたんだろうか。へこみつつ、反省している。 Ver.2では、そんなことの無いようにしなければ。もっともっと練って行こう。そして、スクリーンショットだけでも早めに公開して、意見を頂ければと思い始めている。独り善がりではない形でのりリースを目指したい。愛だけでも、熱意だけでも、やはり足りない。知恵も磨かなければ。 以上。/mitsui ps. 息子の名誉のために一言。すこし誇張しています:-) ここでも一度ご紹介した、「あみちゃん」の最新情報。手術成功! http://ami.heart.mepage.jp/new.htm 友人のお子さんが今大腸除去という瀬戸際に居る。こちらはお金の問題以前に、世界的にも例の無い手術になるという技術の問題が絡んでいる。痛みに耐える彼の姿に、胸が痛くなる。できることは本当に祈るだけ。

コラム No. 94

視点 Ridualのデモを見せたときの反応は、大きくは二つのパターンに分かれる。一つ目は、面白がってくれて他にどんなことができるのかと質問攻めにするパターン。もう一つは、Ridualの欠点や不足している機能を挙げて、駄目だと烙印を押すパターン。 前者の場合でも、幾つかの質問に答えていくうちに、Ridualのできないことに触れてしまう。例えば、JavaScript解析。正直にできないことを伝えるが、反応は冷静に考えながら、「そうですか、じゃあこれはできますか?」と質問の矛先が変えられる場合が多い。万能のツールなど、そもそもあると思っていないかのような対応だ。 できること、できないことを冷静に並べた上で、自分のワークフローに適合できるか検討しているのが分かる。何がその人の頭の中で計算されているのかを、ワクワクドキドキしながら待つ。Ridual開発チームの知らない開発手法に出会えるかもしれない瞬間であり、購入に至る至らないとは違う次元で緊張する。 後者の場合は、私の説明する機能の一つ一つにクレームが付く。ここで、こういう情報が出ないんですかぁ、ここのやり方が分かり辛い、面倒くさいなぁ。一つ一つはもっともな要望で、開発者としていちいち頭を下げるしかない。 でも、不思議なのが、Ridualと同じようなアウトプットを作る場合でも、全く使おうとしない傾向が見える。一生懸命Explorerからコピー&ペーストで情報を手で写す人が意外に多い。手間であろうと、エラーを含みやすいリスクがあっても、馴染んだ方式の方が大切だと言っているようだ。 勿論、「慣れ親しんだ操作」は資産だと思う。指が覚えているようなショートカットがアプリ毎に異なってしまっては、使う気になれないのは理解できる。でも、「手作業からの開放」という誘いは私には大きい。何か大きなメリットがあれば、私は馴染みのツールを取り替える(あるいは併用する)ことに躊躇しない。でもそうじゃない人は多い。大切にする事柄は人によって異なる。 ■ こうした反応の違いは、仕事の進め方のスタイルに依存している部分もあるのかもしれない。自分の通常行っている作業を客観視しながら推し進めるやり方と、余りそのような体系的な整理をしないやり方。 どちらが上とか高度とかいう分類をする気はない。体系化するということはパターン化、定型業務化してることであり、信頼性は高まるかもしれないが、マンネリ化のリスクがある。変化の激しい現場では、スタイルを適宜修正するのも辛くなる場合もあるだろう。対して、場当たり的にも見えるスタイルは、瞬時のヒラメキがとてつもなく大きなものであったりする。一長一短。 私が体系的に整理するのを好む(できてはいないけれど)のは、誰かに方法論ごと丸投げしたくて、説明しやすいように整理するため。目の前のお客さんに喜んでもらうだけでは飽き足らず、成功事例は誰かに継承したいし、もっとシェイプアップしたいから。 また、自分がどう感じているのか、どう考えているのかを見直すことは面白い。考え方の変遷とか、誰々の影響を受けているとか、どのサイトの匂いがするとか。自分がどこからインスパイアされ易いのかを知っておくことは役にも立つ。 プロジェクトが終了する度に、自分の感性とスタイルとツールとを擦り合わせていく。開発中は怖くて手が出せない、ツールのヴァージョンアップも、こういった時に考えることにしている。 本当に自分が必要としている機能を整理しながら、その機能があれば今回のプロジェクトが楽になったのかを省みる。プロジェクトの狭間はそれほど長い時間が与えられる訳ではないので、直感で要/不要を判断する。 そのせいか、ツールの変遷を見ると節操がない。その時その時で必要と思った機能をどんどん試していく。最終的に残るものは結構標準的なツールだけれど、雑誌で紹介されたり、人づてに聞いたツールがディスクの中に転がっている。試行錯誤などしないで、メジャーなツールのヴァージョンアップにだけ対応していても結果は変わらないのかもしれない。効率だけを考えるなら。 ■ しかし、Textエディタから始まって、PageMillあたりから色々とツールに触れてきたが、レイアウトに関してもロジックに関しても、この数年でこんなに様変わりするものなのだと改めて思わされる。 ツールがあるから市場が拓けるのか、市場が見えるからツールが生み出されるのか。兎にも角にも、どちらの側面も持ちつつ、私たちの道具箱には様々な新顔が入ってくる。 下記は、私達が意識しているRidualの競合製品: 視覚的上流設計機能: - Inspiration http://www.threes.co.jp/ - Visio http://www.microsoft.com/japan/office/visio/prodinfo/ 情報視覚化(視覚的サイトマップ自動生成)機能: - Dreamweaver http://www.macromedia.com/jp/software/dreamweaver/ - Adobe GoLive http://www.adobe.co.jp/products/golive/main.html 解析機能機能: - WebMaster http://www.istinc.co.jp/webmaster/ - WebXm http://www.watchfire.com/jp/products/webxm/ 特に最後の製品(サービス)には少し驚かされる。顧客リストを見ながら、「解析」という分野の裾野の広さを思い知らされる。もはや、開発が主体ではない。リスク管理が主体である。開発者ではなく経営者に語っている。 大規模化/複雑化するWebサイト、その一方で社会インフラとしての安定性/信頼性を求められる存在。もはや、人間が人手で確認できるモノではなくなって来ている。問題点や欠陥を最新のセンサーで拾い出しながら、人知で改善していくという、先進工事現場さながらの状況に突入していることを実感する。 ■ 以前、どこかで聞いた話を思い出した。ある先生が教室で、白い紙を取り出し、それが何かを生徒に問う。紙の中央には黒い点が1つ。質問された生徒全員が、「黒い点」だと答えたという。先生は「黒点付きの『白い紙』と答える者は一人もいないのか」と微笑んだという。 どこに視点を置くかで、ものの捉え方は変わって来る。自分のワークスタイルを中心に置くか、市場を中心に置くか、技術か、規格か、ユーザか、時代か。Ridual(ツール)によって楽になった作業のコストを見るのか、まだ楽にならない部分に注目するのか。サイト開発中心に「Webサイト」を見るのか、顧客の資産としてリスク管理まで考慮するのか。 置くべき視点は千差万別だ。答えなんか無いのかもしれない。翻弄されることなく、自分なりの視点を定めて行きたい。 以上。/mitsui ps. デモへの反応でもう一つ面白い反応がある。機能を見ながら、「部長はどう使うかなぁ」と口に出す人が結構いる。自分でも、ユーザでもない、上司への通り易さをまず見る。その上司はリーダーシップの強い方なのかもしれない。でもそのおかげで、メンバが間違った視点を持ち始めている。向かい合うべき相手が社外にいることは多い。

コラム No. 93

No.93 2005/05/10(Tue) 14:20 百均(ヒャッキン/百円均一ショップ) 「百円ショップ」と呼ぶものだと思っていたのに、娘は「百均(ヒャッキン/百円均一ショップ)」と呼ぶ。最近そこに頻繁に行く。家での片づけのため、手ごろな大きさの整理箱が目当て。 それにしても、百円でよくこれだけのものを作れるなぁと、今更ながら感心する。今までの値付けが不当なものに感じる商品もあれば、これはヤバイだろうと思えるものもある。最近は後者の方に目が行く。 ケースとか、箱とかの単なる「立方体」というのであれば、材料費と多少のギミックで百円はアリだと思う。しかし、明らかに「形状」に工夫があるような「名品」を、型にとって作りました、という商品には眉をひそめてしまう。 例えば、マッサージ系の商品。どこかで見たなぁという独特のフォルム。でも、よく見ると、細部に手抜きが見える。百円だということでは文句は出ないが、そのオリジナルをデザインした人には耐え難いのではないかと想像する。マネそのものにも腹を立てるだろけれど、やるなら細部までやれよという怒りもあるんじゃないだろうか。 「肩を叩く」という機能を、最適化するために考え抜かれた形状。如何に叩き易いかを追求した結果としての、その曲線、重さ、材質。その結果だけを型取りしてプラスチックを流し込めば、コピー完了。でも、繰り返された計算も試行錯誤も、そこには跡形もない。 ■ 努力することなく利益を得ようとする、そうしたソックリさんを見つめながら、嫌な経験を思い出した。 1ピクセルにこだわって、長時間話し合い、格闘してリリースしたサイト。その更新の時だった。一緒に頑張ってきた者がリーダーになったにも拘らず、リニューアルされたサイトは無残だった。 場違いな情報、勘違いなその見せ方、単なる形だけの利便性、ユーザが積極的に求めていない機能、見苦しいアバター、オチャラケたアイコン。どれをとっても、それまで格闘してきたブランド戦略とは異なる方向性のものが付け足され、これでもかというほどチグハグな印象だけが輝いていた。 理由は、予算。「今回は前回ほど予算をかけられないので、できる範囲でやりました」、担当者は平然と、噛み付いた私に答えた。重ねた試行錯誤もアイデアも無視して、経済性だけが優先された。夢や芸術性では食っていけないのだと、現実的に考えろと、彼は私を諭すように言った。 私達は、1ピクセルまでこだわる事で、アート性を高めようとした訳ではなかった。自分達の美意識とかそんな話ではなく、システムにユーザビリティとかブランドという「付加価値」を付けるために徹夜した。 本音を明かせば、クライアント教育も兼ねたプロジェクトだった。エンドユーザに愛されるサイト開発の一例を示したつもりだった。単なるシステム的な発想だけではない「おもてなし」。それを一緒にこれからも作り続けたい。そんな風にプロジェクトの間中想い焦がれていた。納品したファイル群だけでなく、仕事の進め方自体を提供した気でいた。エンドユーザの立場に立つ一例として。 ■ 予算内に収まるように作ること、収支を合わせることは、勿論必要なスキルだ。しかし、一方で世の中には「投資」という言葉もある。チャンスだと思われる分野や時には、短期的な収支ではなく、長期的な視野に立つ。 その辺りを促すこともWeb屋の仕事に入ってきていると思う。「今、このユーザを掘り起こしましょう、種蒔きしましょう、半年後には収穫があります」。商品とユーザと企業とを熟知できる立場にあるWeb屋こそがこの台詞を言える。 深く考えることには、時間やコストがかかる。逆に言えば、コストを下げたければ、深く考えなければ良い。ユーザのことを考えない、運用のことを考えない、全体の整合性のことを考えない、企業イメージなど考えない。コストダウンする方法など山のようにある。1個100円でGIFアイコンを作成を発注して、組合せだけで、ごちゃごちゃのサイトを作ることは現実に可能な話だ。 しかし、安く開発する方向性に走り出すと、その先に待っているのは価格競争だ。価格競争で生き残るのは並大抵のことではない。そして、価格だけで選ばれるWeb屋になることに私は未来を感じない。そもそも、会社の総合受付をハリボテで作りましょうと提案することがあるだろうか。無理してでも大理石で設計したいではないか。Webは今やその総合受付以上に会社の顔だ。 新たな付加価値を含めた開発を持続させることは、Web屋にも顧客にも、悪いことではない。安かろう…、の先に本当に良い状態が待っているのか。良いものにコストがかかるのは自明のことで、それを納得してもらいながら、より良い総合受付を作っているのが我々Web屋じゃないか。 アリモノでまかなったり、思慮浅く対応したり、価格競争に走ったりすることは、タコが自分の足を食べている姿を思わせる。その時は食べた気になっていても、大事なときに全力を出せない体になっていく。 その後、そのプロジェクトを進めたチームの良い話は聞かなかった。相変わらず、仕事は取れていたようだが、残業残業でとてもハッピーには見えない。余裕もなく自転車操業。付加価値を育てずに、できる事だけをやった結果だと感じたし、先を見ない「現実主義者」という正当化台詞が哀れに思えた。 ■ 出来上がったチグハグなサイトを見つめながら、Web屋の仕事を改めて考えた。公開されているサイトは誰もモノなのだろう。勿論お金を出したクライアントのものである。でも、そこにつぎ込まれた情熱や知恵は、きちんと受け継ぐ責任もあるんじゃないだろうか。 細部にまで拘って作り込んだサイトが、公開後数ヶ月で、様々な「部品」を付け足されて、レイアウトが崩れていくという経験は何度もした。あの長時間にわたるユーザビリティとか見易さの議論は何だったんだろう、と幾度となく涙を飲んだ。 時代は進んで行っているし、ユーザの志向も想いも変わるだろう。だから、それに合わせて、Webサイトも変わっていくべきだと思う。でも、Webサイトは自動販売機で買ったものじゃない。きちんと変遷の歴史を踏まえながら変えるべきだろう。 映画「マトリックス」を見たときに、「これは『GHOST IN THE SHELL 甲殻機動隊』じゃないか」と思わされた。しかし、「コピー」でも「二番煎じ」でもない。ウォシャウスキー兄弟監督が正式にコメントしたかどうかは知らないが、明らかに「GHOST..」に対する敬意を感じる。出典が分かるように細工をしつつ、新たな価値を付け足している。出典の暗示には潔ささえ感じる。 先代の優れた点を、更に磨きをかけたものに昇華していく。それが猿真似ではない、更新系のモノつくりの原点なのかもしれない。それを「オマージュ」と呼んでも良いだろう。 Webサイトがリニューアルという階段を超えて、なお輝きを維持するのは珍しい。担当者の交代や、開発陣の入れ替えなど、知恵の継承を阻害する要因に満ち溢れているためだ。 でも、熟考されたサイトのリニューアル時に、更にその熟考を重ねられるなら、更に良いサービスをユーザに提供できるのではないか。それこそが、ユーザを大切にすることであり、長期的にその会社や製品のファンを育てることに繋がり、それこそが経営戦略の根幹なのだと信じる。 安さという魅力に負けて「百均スタイル」で進むのか、多少コストはかかっても「熟考の継承スタイル」を貫くのか。ユーザとの接点をどのように捉えているのかで、進む道が決まっていく。 以上。/mitsui ps. 先人の熟考を形に表すのを「解析」と呼ぶ。Ridualは、サイト構造を視覚化するというアプローチで、熟考の継承を可能にしようとしています。

コラム No. 92

競争と感傷 AdobeがMacromediaを買収。このニュースのおかげで、一週間ほど脱力感が切れない。両社とも現在進めている次期版には影響はないと明言しているし、そもそもツールが変わろうと、Webに関わる者の仕事が変わる訳ではない。それは理解した上で感傷的になっている。 少し情報の整理をしておこう。買収規模、総額34億ドルの株式交換。Webに限った話で言えば、最近はMacromediaの方が勢いがあった。しかし、会社規模から言えば、Adobeの2004年における業績は、売上高が前年比29%増の16億3000万ドル、純利益は同69%増の4億5040万ドル、時価総額148億3000万ドル(独立系ソフト企業としてはMS、オラクルなどに次ぐ世界第5位)。対するMacromediaは、売り上げで前年比20%増の4億2200万ドル。同レベルで競り合っていると言うには少し規模の差が見える。 それでも両社は、早くから「ライバル企業」という関係にあり、同じユーザ層を対象として競い合っていたイメージが強い。大きな展示会が多く開催された時期とも重なり、両社のプレゼンを聞くためだけに幕張メッセに足を運んだものだった。 両社の競合が頂点に達したのは、2000年。特許侵害で互いを訴え合う事態に発展した(2001年に和解)。この時、多くのユーザ(基本的に両社のユーザであって、片方のみのユーザは少なかったと思われる)は、どちらを応援する訳でもなく、ただ使い勝手の良さが、特許の名の下に、欠落されるのを心配した。 この時点で、ユーザはどちらかの信者になるのを止め、機能を受け入れるかどうかを中心に考えていて、切替を面倒に思いながらも共存関係を受け入れていたのではないだろうか。AdobeファンとMacromediaファンが、犬猿の仲という話は聞いたことがないし、互いの機能の話を互いに聞き耳立てて聞くような関係だった。 和解を機に、棲み分けがはっきりしたとも見えた。AdobeはPDFへの投資を増やし、「Adobe Designer」という名でXMLフォーム設計ツールを発表する。この名が、いわゆるデザイン製品に付けられなかったことに衝撃を感じた。Macromediaは紙分野への進出を諦めたようにも見えていた。そして、どちらもが必要としていたのが、サーバ技術。デザイナの見えない世界で何かが動いていたのだろうか。 そして、一つの会社になる。ユーザの中では、統廃合される製品の話で持ちきりだ。そして、統合される機能やユーザインターフェース(UI)に期待と不安が交じり合う。 今は当事者の誰もが言葉を慎重に選んでいるが、その中でも慎重な言い方をしている場合、「買収」よりも「合併」という言葉を用いているように感じる。一方が他方を吸収したというイメージよりも、両社の良いとこ取りの新会社が誕生するというイメージを選んでいるかのように。 ■ 冷静に考えると、今まで似たような二つの製品を買っていたのが、一製品で済む訳だし、メリットは大きい。しかし、何かが引っかかる。この両社が一つになってしまうことに抵抗がある。 別にAdobeが嫌いな訳ではない。今はFlash系でMacromediaの方に近いポジションにいるが、Photoshopがあったからこそ、この業界に流れて来たし、今でも一番愛用しているのは、Illustratorだ。それでも二つの企業の「競い合い」が業界を引っ張って来たのではないかと思えてならない。 両社の合併は、競合製品をつぶし合う戦いの結果には見えない。両社は共通の「競争相手」に挑む体制を整え始めたと見るのが一般的な見方だ。OS企業。デザイン業界の競合相手ではない、プラットフォーム企業。Microsoft。 これが感傷的にさせる点だと思う。Microsoftは、Macromediaを買収するとの噂が流れたこともあり、次期OS”Longhorn”では、この両社に対する競合機能を多く搭載すると言われている。抗PDF対策として文書の携行性に関する機能追加や、Flashキラーの搭載。現に、Microsoftは一番Flashに近いドロー形ソフトである、Expressionを既に買収している。 そして、両社を動かしたもう一つの言葉は、「ケータイ」らしい。そもそも、日本ではFlashLite 1.0が一般的だが、もう少し色々なことができる1.1が海外では広まっている。更に、携帯端末自体の仕様も異なる。左右ボタンを、アプリケーションが識別できる(日本のケータイは上下ボタンだけでゲームをやる程に難儀だと評した友人がいる)。 そして、あと5年以内に携帯電話の75%がマルチメディア機能を持つとも予想されている。明らかに市場として明るい。似たような機能で競い合って、仕様を二分するようなことをせず、大きくなるパイを大きいまま頂いてしまえというのは、当たり前の戦略だろう。 以前、Macromediaの説明でも、より大きな市場への拡大(ケータイへの進出)を明確に謳っていた。両社は共に、より大きな市場へとステップアップしていく時期なのだ。 ■ 子供の頃、近所に「コーベ屋」という駄菓子屋があった。汚い店で、何か買うたびに面倒そうにオバちゃんかオッちゃんが出てくる。二人とも年中怒っているような顔をしてたが、世話焼きだった。「元気か?」とか、「最近来んな」とか無愛想に話しかけ、当たりくじを見せると時にはオマケをくれた。 そこは、仮面ライダーカードや駄菓子やたこ焼きを通じた、子供達と大人の接点であり、社交の場だった。そこが、綺麗なコンビニに変わり、スーパーマーケットに変わっていた。鼻をたらした子供達はそこにはもう居ない。綺麗なお母さん達が毎日のおかずを買いに来る。売り上げは、駄菓子屋の比ではないだろう。でもそこはもう名実共に「コーベ屋」ではない。 ■ そんな店を思い出した。企業の拡大を否定するわけではない。それが「発展」と呼ばれるものなのだろう。しかし、何かを置き忘れている気もする。そんな波が、デザインの先端ベンダーに押し寄せて来た。 デザインツールがどうのと言うレベルの話ではなく、両社のIT業界での生き残りをかけた戦いなのだろう。どっちのUIが良いとか好きだとかの話しではない。そんな「コダワリ」を徹して消えていった企業も数多い。 両社は、「デザイン」を一般的なものにするのに貢献してきた。色や形や動きを一般大衆が操作して試行錯誤できる形にしてくれた。そこから学び取ったものは、数え切れない。機能や知識だけでなく、同じ感性をもつ友人達との出会いすら演出してくれた。 それが、拡大/発展というビジネスラインに乗っかって遠ざかっていくような感覚がぬぐえない。デザインと言う場ではなく、ビジネスという場での戦略。 両社はともに、「コミュニケーション」の大切さを説いて業界を引っ張ってきた。いつも新しい何かを目の前に示してくれた。今度は、企業のあり方としても、身近で大きな新しい企業の形を見せてくれることを期待したい。この感傷的な気分を吹き飛ばしてくれるような、元気で魅力ある新生Adobeに。 以上。/mitsui

コラム No. 91

王様の耳はロバの耳 小さかった我が子達が、徐々に大きくなっていく。言葉も分からなかった子達が、親をフキダさせるようなジョークを口にする。ジョーク自体もおかしいが、そんな風になるだけの時間が経過したことが、なんだか可笑しい。 子育てをしていて、意識的にしたことがある。物語の読み聞かせ。全然上手くならなかったが、子供達は何度もリクエストしてくれた。同じ本を何度も何度も読む。妻が読むと正確に書いてある言葉通りなのだが、私が読むと少し遊ぶ。 14匹のネズミ達の話では、言葉にはないのに、「ここのミミズも頷いているよ」とかアフレコであれこれと付け足した。子供達は、どこにミミズがいるのかと探しながら、「ここのモグラも頷いているよ」等と返してくれる。 http://www.doshinsha.co.jp/longsaler/14hiki/14main.html そして、本がなくても同じ遊びをする。気に入った台詞があれば、日常の生活の中でそのフレーズを使う。映画の台詞もよく使った。一昔前なら、毎朝登校時に「アムロ、いきまーす!」と叫んでいるような感じ。 時々、私がピンと来なくて、「それなんだっけ?」と子供達に尋ねる。どの映画かどの本なのか分からない。記憶力では既に勝てない。私が白旗を揚げているようで、子供達は少し自慢げな顔をする。ちょっとした記憶力ゲームと言葉遊び。ちょっと洒落ていて気に入っている。 ■ 更にお話を活用することもある。童話に出てくる、欲張り爺さんやゴウツク婆さんが痛い目に会う話を聞かせた後、オモチャの取り合い喧嘩をしたら、「欲張り爺さんはどうなった?」と聞く。「欲張り婆さんは大変だったなぁー」とつぶやく。喧嘩をやめろと怒るより、よほど効果がある。 猫と犬が肉を取り合っているところに狐がやって来て、ちょうど半分にしてあげると言って、微調整の合間に全部食べてしまうという話も良く使った。一つのものを取り合いになると、「パパ狐が半分に分けてあげるよ」と言う。子供達は何の話をしているのか考えて、ほぼ同時に首を振る。 語り継がれる童話や昔話には知恵が詰まっている。問題を凝縮しているので、ちょっと自分の問題を遠目に見れれば似たような状況になったりする。子供達へ話すだけでなく、自分にも当てはめて考える。 「太陽と北風」や「裸の王様」。子供に話しながら、自分が聞き入ったり、考え込んだりする。 自分のアイデアを北風のように押し付けてなかったか、太陽が暖かくコートを脱がせるように、クライアントの要求をかわすことはできなかったか。怒りの残る交渉事で、全く逆効果な方向に進もうとする「王様」に正しい姿を伝えたか。王様を裸のままにすることよりも、保身を優先しなかったか。言うべき台詞を飲み込みはしなかったか。 ■ 最近のお気に入りは、「王様の耳はロバの耳」。昔から好きな話なんだけれど、最近とみに頭の中に居座っている。何かを溜め込む過ぎてはいけない。それが、真実ならば尚のこと。 少し不調な波が続いていて、ストレスが溜まっている。どこかで、何とか吐き出さないと爆発する。主人公が王様の秘密を叫んだ「穴」、私専用の穴はどこにあるのか探している。 某会合で、プロジェクト進行の難しさを話す。自分の経験談を私の言葉で伝える。そばに居たデザイナがニコニコしながら、良くぞ言ってくれましたと頷いている。共通の苦労を理解し合えることが嬉しいのだ。「あっ、この人は分かってくれる」、という安心感。誰にも理解されない道を孤独に歩んで来た訳ではないのだという連帯感。 理解しあえても、苦労が減る訳ではない。でも重荷が少し軽くなった気がする。別に汚い言葉でののしるような愚痴大会は必要ない。どれだけ苦労しているかの不運自慢大会をしたい訳でもない。「こんなに努力しているのに、分かってもらえないんだよね」、そんな会話を交わしたいだけ。 深夜の格闘中も、ふっと息をつくと、誰かに私が起きていることを伝えたくなる。弱気になると余計そうなる。mixiで深夜残業限定のスレッドにお邪魔する。逃避だと分かっていながら、「王様の耳は…」と叫ぶ。それだけで少し気が楽になる。コメントが付くと、なんだか嬉しい。あぁ一人じゃない。 ■ 少し前、人を褒めるときの言葉にこんなのがあった、「孤立することを恐れない人だった」。そうした勇敢さの大きさが、漸く分かるようになって来た。理解されなくても、自らが正しいと思うところに突き進んで行ける勇気。 どうしても引けない場面では、この勇敢さを身にまとわなければならない。淋しがっているだけでは、道は拓けない。誰かとつながっていたいとする気持ちも大事だが、孤立を恐れない対決姿勢も忘れてはいけない。 そして、戦わざるを得ないのならば、その対決が本当に意味あるものであって欲しい。無意味に孤立する力を発するのは見っともない。だから孤立して「王様の耳は..」と叫ぶ前に、心の中で願う言葉がある。これからも変えるべきものに向き合って行きたい。 神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を私たちにお与えください。 変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さをお与えください。 そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵をお与えください。 主キリストによって、アーメン。 ニーバーの祈り 以上。/mitsui

コラム No. 90

会社を騙す RIA(Rich Internet Application)系のプロジェクトについての話を開発者から聞く機会が増えた。セミナーや小さな会合や、場は様々。何に苦労して、何をやりたかったのか。ご本人の口から語られる言葉には、やはり重みがある。 成功事例には、幾つかの共通点がある気がしている。発注するクライアント内に熱意のある方が居る。その熱意が、単なる「担当者」という域を超えている。そのプロジェクトを自分の子供のように思っているフシがある。寝ても覚めても、そのことを考えていることが、言葉の端々から伝わってくる。 そして、大抵同じ台詞を口にする、「会社(上司)を騙して(たきつけて)、このプロジェクトを進めました」。 勿論、横領とかそういった類の話ではない。それでも多くの人が「騙す」という言葉を好んで使う。ここに、会社内の様子が垣間見える。会社としては、そのプロジェクトで利益を得るという確たる予測などなさそうだ。「コイツ(担当者)がそこまで言うのなら賭けてみよう」、そんな会議がイメージできる。 数字で経営を進めるというのは基本の基本だろう。費用対効果という概念が大切にされるのも道理である。何をやるのに幾らかかったか、グラフで示し、類似のものと比較し検討する。そうやって物事が全て決められるなら、ある意味ハッピーかもしれない。 でも、費用に換算できにくいものも存在する。例えば、コミュニケーションや個人的ネットワーク。誰と誰が会話を交わすことの金銭的価値をどう評価するのか。たわいない与太話が、ビジネスを生み出したなら有効で、単なる与太話に終わったら無意味なものなのか。 そもそも、Webはコミュニケーションだ。会話や対話を金銭換算することは難しい。そうしたことを分かりつつ、それでもここに投資をした方が良いと進言する場合、「騙す」という表現に落ち着くのかもしれない。 ■ そして、騙すのにも資格が要る。「振り込め詐欺」のように「オレオレ」と言っただけで話が通るケースは少ない。「コイツがそこまで言うのなら」と思わせるにはそれなりの歴史が必要だと思う。 人よりも法や制度を重視してきた人が、エンドユーザとの対話に目覚めました、と対話活性提案をしても回りの人も困る。「コイツがそこまで..」と思わせるには、「コイツはいつもそんなことを言っている」という前提がある。 システム設計の会議の度に、エンドユーザの気持ちを考えましょうと言う。データベースの話をしているのに、やはりここでエンドユーザはこういった操作をしたくなるので、ここにこのフィールドを追加しましょうと言う。表形式になりさえすれば良いと大半のメンバが思っているのに、1ピクセルにこだわって見栄えを調整する。 「また始まった」とか「やれやれ」とか、多くの人に思われる歴史。当人にとっても、その人を抱えるチームにとっても、ハッピーとは言い切れない長い時間。「エンドユーザのことよりも、チームのことを考えろよ」等という、設計者として本末転倒な会話もなされたかもしれない。 システム系の会社なら「Web馬鹿」とか「デザイン馬鹿」、デザイン系会社なら「システム馬鹿」や「カタブツ」。「木を見て森を見ないどうしようもない奴」、そんな陰口をたたかれた時代もあったかもしれない。勝手に敗者復活戦のようなドラマを組み立てるが、まんざら外れていないと思う。 そして石の上にも三年。言い続けた者にチャンスが与えられる。体制やチーム媚びることなく、エンドユーザの代弁者としてWeb開発に関わった重みが発言力を持つ時が来る。 そんな熱い想いを聴いていると、こんな人と仕事がしたいとと思わされる。ここまで来るのに苦労しましたとか、照れ笑いの後ろに、揺るぎない信念がある。一見会社に抵抗して趣味に走っているように見えても、実際は「会社がどう見られているか」を最重視しているからこそ、寄らば大樹の陰な動きができないのだ。今までとは違う愛社精神を感じる。「馬鹿」と呼ばれようと、会社を守るという意思。エリートだけが会社を支えている訳ではない。 ■ 今や、Web(ネット)は常識的な位置付けがなされつつある。同時に、奇抜さよりも、誰にでも分かる情報提供・情報共有の場として成熟の途についた。会社概要や製品紹介のページ構成にパターン性が見えてきて、どのサイトも同じように見えつつも、情報を探すアタリが付けやすくなってきている。 そんな流れの中で、新たな付加価値のための模索も活性化されつつある。皆と同じものであるならば、制作費が叩かれるだけである。信じがたいページ単価でWebサイトが構築される。でもそれを続けては、情報の共有スキルが会社もユーザも向上しない。 硬直的な情報提供方式に抗して育ってきたWebが、自らの硬直性の壁にぶち当たっている。「今のままで良いじゃないか、昔よりは便利になったんだから」、「更に投資する意味が見えない」、そんな声に戦いを挑む人達が、声を発するようになってきた。そこに「騙す」人と、「騙される(騙されても良しとする)」会社が存在する。 そして、そうした会社が新しい流れを創りつつあるように見える。Webがもっと一般的になってきたとき、この「騙す」とい言葉は別の言葉になっているかもしれない。 注)「馬鹿」は言葉としては不適切かもしれませんが、親しみを込めたこの表現が最適と考え、用いました。悪意はありません。 以上。/mitsui

コラム No. 89

引越し 年度末の忙しさの中、沢山の仕事を置き去りにして、引越しをした。久々の肉体労働。いつもは重いPCカバンを持つことにしか使わない筋肉を酷使しつつ、頭の中はWebのことを考えていた。 けれども、この引越しの数日間でネットにアクセスしたのは数回のみ。こんなに意図的にネットから離れようとしたのも初めてかもしれない。キー操作だけで目当ての情報に辿り着ける簡便さとは対極にあるモノを体験した。 ■ 引越しでネットが意味を成すのは、引越し屋さんへの最初の連絡程度。自分の持ち物のリストを入力していっても、結局のところ見積りのプロに来てもらうしかない。我が家は押入れにまで本を押し込んでいたので、プロの見立てでも大きな誤差が出た。積み残しは自力で運ぶことにして、大物だけをお願いする。 家の中という、究極のプライベート情報を、見ず知らずの若い衆に運んでもらう。お金がなかったので、自分でも運ぶのを手伝う。年齢差を感じつつ、いたわられつつ、荷物がトラックの中に消えていく。 一緒に汗をかき、息を切らして、指示もする。昼時にかかったので、誘って一緒にケンタッキー出前を食べる。少しぎこちない会話から、一番若い人が16歳で、妻と同郷であることが分かる。 妻がおどけて先輩面して話す。どこかで顔を合わせていたかもね、と言いつつ、妻がその地に居たときには彼が生まれていないことに気付く。打ち解ける、とまでは言えないまでも会話が弾む。 春の引越しシーズンの忙しさは、Web屋に勝るとも劣らない。布団で寝ていないとか、昨日は一時間でしたとか。急に親近感が沸いてくる。なんだか、後輩のようにさえ感じる。 こんな会話をしばらくしてこなかったことにも気付かされる。Webで毎日のように見知らぬ人と出会っているのに。たわいない会話かもしれないけれど、大切なことだと改めて思う。食後の作業はずっと円滑に進む。会話が潤滑油になっている。 ■ 子供との距離にも影響があった。中一の息子と物を運ぶ。義姉も来てくれていたので、荷物上げ下げの掛け声は基本的には敬語(丁寧語)に統一していた。「持ち上げます」、「ありがとう」、必ず声に出した。引越し屋さんも年齢関係なしに敬語に近い言葉で声掛けをしている。命令口調より温かみがある。 運動部に属する息子に、日頃キーボードしか打たない私が勝てるはずがない。一緒に運んでいても、直ぐに息が切れる。息子がいたわってくれる。少し情けなくも感じる。 高いところの物を背伸びでぐっと引き寄せ、私が支えて彼がヒモで縛る。到る所に棚などを作ってカスタマイズしたので取り外しも大半を任せた。間近に見る息子に、いつの間に、こんなにガッチリしたのかと感心する。息子は一人前扱いされたようで、心なし嬉しそうだ。 娘も頑張ってくれる。優柔不断な妻の買い物に付き合い、即決する。細々とした作業を嬉々としてこなしていく。いつの間にこんなに頼りにできるようになったのか。張り切りすぎて翌日熱を出すまで、十一歳であることを忘れてしまった。 平日顔を合わせることも減ってしまった生活を反省する。こんな頼り頼られる関係や瞬間は久々だ。一緒に汗だくになるなんて、幼時の時以来かもしれない。 ■ 荷物を運び出し、お世話になったご近所さんに挨拶に行く。小さなタオルを添えてお礼を言う。特にお世話になった方と大家さんにはお菓子を。余り仲が良くないと聞いていた、その二人が同じ台詞を返してきた。「そんな気遣いいらないのに、お金使わせちゃったねぇ」。なんだか微笑ましい。 七年間過ごした家の最後の掃除をして、ブレーカーを落とし、水道の栓を閉めて、鍵をかける。築40年ほどの、台風のたびにビクビクしながら夜を過ごした家を故郷のように感じてしまう。子供達の大切な小学校時代を支えてくれた家。感傷的だと思いつつ、感謝の念が湧き上がる。 新居の挨拶廻りでは、挨拶に来たと聞くと家族中が玄関に集まってくれる。分からないことは何でも聞きなさい、と言ってくれる。ご近所さんは昭和30年の分譲で移り住んできた方達が多いとのこと。私は生まれてもいない。 ■ 実は一月前にパソコンの引越しもした。個人データを移し、アプリケーションを入れ直し、ただただ面倒で時間のかかる作業。特にThinkPadからThinkPadへの引越しだったせいもあり、CPUが上がろうと、HDDが倍増しようと、感動は薄い。デザインに殆ど変化がない分、ワクワク感が少ない。業務用という感じ。 利便性を求めて、人との直接接点を敬遠し、デジタルの世界に引きこもりがちな生活だが、人との接点以上に面白いモノはない。Webで出会う感心させられる意見に対しては、間違いなくその人自身への興味がわく。 ここ数日間、ネットに無縁な人たちにばかり会っている。どの方も、パソコンすら持っていないかもしれない。でも、豊かな情報に溢れている。検索可能な情報だけが、「情報」ではない。デジタルで現せるものだけが、「情報」ではない。そんな当たり前のことが頭に浮かぶ。 Webでそれなりの情報検索は可能になっている。とても便利で離れて暮らすことも厳しい。でも、未だWebが伝え切れていない情報がある。将来は、今語られている「ユーザ体験」とは別次元の体験を提供できる可能性もある。 新居の横の公園では、桜が咲き始めた。開花情報ではなく、この春めいていく雰囲気もいつかWebに載せることができるだろうか。 以上。/mitsui”まだまだダンボールの山の中より”

コラム No. 88

忘れてはいけない ある雨の日、電車に乗っていると、五十台半ばの女性が大きなリュックを背負って乗り込んで来た。自分の横幅と同じ程の厚みのリュックを担ぎながら、文庫本を読み始める。リュックの中身は何かゴツゴツしたもので、電車が揺れるたびに私の背中を刺激する。リュックに付いた雨の雫が、接点を濡らして行く。 彼女の立場から見ると、何も落ち度はない。自分の荷物を自ら背負い、自分の趣味の本を読む。誰に迷惑をかけている訳でもない、と思っているだろう。でも、少し混み始めた車内で隣に立つ者には違う。体の部分の密集度と足元のそれには差がある。せめて、荷物は降ろして欲しい。 多分一言声をかければ、大人の対応をしてくれる予感があったが、黙っていた。なんとなく、荷物を降ろせとは言い辛い。自分の背負っているものを、どこに置こうがその人の勝手かと、隣に偶然居合わせたのが不運だと、勝手に諦める。 ■ Web屋として生きていく上での問題を幾つか書き綴ってきた。どの問題も、基本的には人と人との接点の話だ。クライアントと開発者、エンドユーザと開発者、デザイナとエンジニア、仕切る者と仕切られる者。 左右に「人」を置き、真ん中に「情報」を置く。左から右に、それを流す。右から左にそれを流す。そんなやり取りを机上でシミュレーションして、左右両者にとって「良い状態」を作り出そうとする。 Web屋の仕事の本質がそんなところにあるのだから、人との接点にどうしたって焦点があたる。画家が画材を熟知して絵を描き上げるように、Web屋は人を知ろうと努力する。そして知りたい対象は、「人は何ぞや」だけに留まらず、「どういった関係が望ましいか」に及ぶ。それをデザインするのだから。 勿論、望ましい関係に唯一の解がある訳じゃない。想定するユーザや状況や、扱う情報によっても様々だ。そういった制約事項の中で「よりよいもの」を求めて思索を重ねる。その過程が辛くも楽しい。 けれど、自分達のアウトプットとエンドユーザの関係には貪欲に取り組めても、自分達と直接接点のある「関係」のデザインには無頓着な場合が多い。諦めるケースも多い。そんな大人気ないことを言うなと諦め、常識知らずと言われるのが怖くて諦める。既存にない情報提供や関係構築が仕事なのに。 ■ 関係改善を諦めた時に、決まって頭の中に流れる曲がある。中島みゆきの「忘れてはいけない」。同じ歌詞が何度も繰り返される、「忘れてはいけないことが必ずある 口に出すことができない人生でも」。 Web屋にとって忘れてはいけないこと、それは何だろう。私にとって忘れてはいけないこと、それは何だろう。その軸足をそらした時点で、自分がWeb屋ではない別のモノになる境界線。私の仕事と後になっても分かる部分とは。 何度か、自分なりのWeb論みたいな話をするチャンスを頂いた。その度に色々と語るのだが、語り終わっても、少し語りつくせなかったという感覚が残る。何時間もの時間枠を頂いても。 先日は、セミナー自体が終わってから参加してくれた人が居て、参加できなかったことを残念がるので、一言で要約した。「システムだけでなく、人間のことも考えましょうよ、としか言っていませんよ」。クライアントと絡む製作過程においても、組織内の役割分担においても、それが要だ。もっと、よい関係でプロジェクトを進める方法があるのではないかと、問題提起だけをしているのかもしれない。 そこに、何かを諦めたくない、何かを忘れてはいけないとする自分が居る。そして同時に、実際の現場では何かを諦めている自分がいる。言いたい言葉を飲み込んでいる自分が居る。語るようには生きてはいない。そこに歯切れの悪さの原因があるのかもしれない。 NHKの「プロジェクトX」の決して諦めない姿に感動しつつ、毎日の仕事は単純なルーチンワークに満足してしまいがちな自分。自分なりのWeb業界分析等を話しながら自己矛盾に気が付かされる。 ■ 理想論に近づこうよと語りながら、改善の進捗が遅いと苛立っているのかもしれない。普通の時間帯に寝起きするという、人間らしい生活をしながら、Webの業界に携わっていたいと願っているだけなのに、それすら果たせない。 でも、改善策を練りながら、これ位頑張っているんだから未だ良い方じゃないかとか考えたりもする。疲れが溜まると、よしよしと自分の頭を撫でたくなる。 そんな時、やはり一つの詩が頭に浮かぶ。最後まで言葉を噛みしめていくと、いつもガツンと頭を殴られたような感覚が残り、頑張る気力が沸いてくる。 「自分の感受性くらい」 茨木のり子 ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 苛立つのを 近親のせいにはするな なにもかも下手だったのはわたくし 初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 「自分の感受性くらい」茨木 のり子 / 花神社 / ISBN:4760214038(1977/03) ■ 荷物を背負い込んだオバさんに言葉を飲み込んだ自分も、何かを変に背負い込んでいるのかもしれない。社会常識という言葉に近い何かを。ちょっと気を利かせて、荷物を下ろせば、周りの人も自分も楽になれるのに。言い訳しながら、何かを背負い込み続けているのかもしれない。「ばかもの」に成り下がる前に、まだやれることがある。 以上。/mitsui